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2007年12月13日木曜日

新渡戸稲造『武士道』と日本道徳教育の問題をめぐって

新渡戸稲造『武士道』と日本道徳教育の問題をめぐって



Antonius R. Pujo Purnomo, M.A.
国立アイルランガ大学

はじめに

文明開化という精神を抱いている明治の知識人たちの中に新渡戸稲造がいた。新渡戸稲造(18621933)は教育者でありながら行政官として日本の歴史上で重要な役割を果たした。今回の研究テーマは「新渡戸稲造『武士道』と日本道徳教育の問題をめぐって」である。なぜ今『武士道』を取り上げたのか。新渡戸は『武士道』(1900) を通して初めて英語で日本人のアイデンティティーを外国人に紹介した。本書は単なる英語での日本紹介ではなく、この著書には日本人の「精神」、「夢」、さ らに「道徳規範」という様々な意味が含まれている。確かに、「武士道」という言葉自体はもうすでに消え去った封建時代の香りが強いが、それは新渡戸稲造の 『武士道』とは異なる。『武士道』は「道徳規範」として、現在日本の道徳教育問題に対して、有効なアイデアを含んでいる。その含まれた道徳理念と新渡戸稲 造における教育理想をいま再考察してみたい。

A 新渡戸稲造と『武士道』

1 新渡戸稲造の生涯

新渡戸稲造(1862-1933)は教育者、外交官としてよく知られている。南部藩士の子として盛岡で生まれ、祖父は三本木開拓の大功労者として知られている。父の十次郎と祖父の伝は稲造がまだ幼いころに亡くなるため、彼は叔父の太田時敏と一緒に上京、時敏の養子になり、太田稲造と改名した。1877年第二期生として、札幌農学校に入学、内村鑑三らと共にキリスト教に入信した。卒業後、開拓使勧業課に勤務され、その2年後(1883)東京帝国大学に入学した。1884年 東大退学、私費留学生として米渡した。米国留学中、クエーカー(キリスト教派)となった。また渡独、農政学を学び、帰国後、札幌農学校の教授となった。そ の後、台湾総督府技官、京都帝国大学教授、第一高等学校校長、東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長、国際連盟事務次長などを歴任した。新渡戸はカナダ のビクトリア市で、72歳で客死した。

2 『武士道』の誕生

『武士道』、原題は“Bushido: The Soul of Japan, An Exposition of Japanese Thought, (武士道:日本の精神、日本思想の解説)、は新渡戸稲造が明治31年(1899年)に書いて、本書は明治32年(1900年)に The Leeds and Biddle Company, Philadelphia,USAから出版された。新渡戸稲造は本書を通して、欧米人に日本の道徳及び思想を紹介した。『武士道』の内容は大きく分けると、四つの部分があり、それは、(1)武士道の入門(第一章 道徳体系対して武士道、第二章 武士道の淵源)、(2)武士道の徳目(第三章~第九章 義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義)、(3)武士の生活との関連のものごと(第十章 武士道の教育及び訓練、第十一章 克己、第十二章 自殺及び復仇の制度、第十三章 刀;武士の魂、第十四章 婦人の教育及び地位)、(4)武士道の将来(第十五章 武士道の感化、第十六章 武士道はまだ生きているのか、第十七章 武士道の将来)である。

武士道の第一版の序文には新渡戸が『武士道』を書くきっかけとなった二点について述べている。即ち、(一)武士道を書く前のおよそ十数年前、188711月、新渡戸がドイツに留学中のとき、二日間ぐらいベルギーの法政学者の E.L.V. ド ラベライ (1822-1892)の 自宅を訪ねた。その際、いろいろな話題の話をした時、宗教のことにたどりついた。ベルギーの法学者は「もし宗教がなかったら、どのように道徳を教えられる のか。」と聞いた。その質問に対して稲造は答えられなかった。その後、およそ十数年間、質問に対しての答えを考えていた。(二)アメリカ出身の婦人のメー リー・エルキントン・パルキンソンと出会ってから、しばしば日本の文化あるいは思想について聞かれたときに充分に答えられなかったようだ。 この二つの理 由で新渡戸稲造は日本の道徳観をまとめて、『武士道』を書き上げた。

な お、新渡戸の『武士道』がどういう中身なのかは、省略する。新渡戸はヨーロッパの騎士道を比較しながら武士道を語っている。武士を産んだのは封建制度であ り、母である封建制度が滅ぶと同時に武士道という道徳体系も消えた。そして、武士道の起源となったのは仏教、神道と儒教である。仏教からの教えは、例え ば、運命に任すという平静なる感覚、不可避に対する静かなる服従、危険災禍に直面してのストイック的なる沈着、生を賤しみ死を親しむ心である。神道の教え は主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、並に親に対する孝行である。最後に儒教の教えは道徳的な教義にもっとも豊かな起源であり、それは孔子が説いた君 臣、父子、夫婦、長幼、ならび朋友間という五倫の道である。また、「義」を中心にして勇・仁・礼・誠と名誉を深く重んじている。これらの教義はむしろヨー ロッパの騎士道と共通点がたくさんある。しかし、武士道にはないものはキリスト教の理念になる「愛」である。武士道にもこのような理念および教義が含め ば、きっともっと素晴らしいものになるではないかと新渡戸稲造が武士道について述べている。さらに、新渡戸は現在武士道という体系としては、封建制度と同 時に消え去ったが、その道徳の精神は国民の心に浸透して、いつも日本の国民の行く道を照らしていると最後に述べている。

3 日本道徳教育書としての『武士道』

「宗 教なし!どうして道徳教育を受けるのですか」と、繰り返し言ったその声を私は容易に忘れ得ない。当時この質問は私をまごつかせた。私はこれに即答できな かった。というのは、私が少年時代に学んだ道徳の教えは学校で教えられたのではなかったから。私は、私の正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析を 始めてから、これらの観念を私の鼻腔に吹き込んだものは武士道であることをようやく見いだしたのである。(中略)しかして封建制度及び武士道を解するなく んば、現代日本の道徳観念は結局封印せられし巻物であることを知った[1](新渡戸稲造『武士道』」第一版「序」、p.11)

新渡戸によると武士道は日本人の生活上の行動を整える道徳的な規範が含まれている。これは西洋の学校で与える宗教の授業と同じ目的である。それは子供たちの心に倫理あるいは道徳教育を植え付けることである。

4 西洋の読者のために書かれた『武士道』

この著述の全体を通して、私は自分の論証する焦点をばヨーロッパの歴史および文学からの類例を引いて説明することを試みた。それはこの問題をば外国の読者の理解に近づけるに役立つと信じたからである。(新渡戸稲造『武士道』、p.12

以 上に述べたように、『武士道』を著作する目的は日本人のためではなく、日本に対する知識のない西洋人のためである。なので、同じ日本人でも「武士道」に関 する知識の相異があるということは当然である。新渡戸は本書に対して、様々な論争点がきっと発生するということが理解して、『武士道』の第一版から6年後、次のように述べている。

本書に触れてあるすべての問題に対しても、もちろん、その応用および議論をさらに進める余地がある。しかし本書を現在以上の大きいものとすることには支障がある。(新渡戸稲造『武士道』増訂第十版序、p.15

5 日本および西洋の歴史的な封建時代と騎士道について論ずることは『武士道』の目的ではない

ヨー ロッパと日本の封建制および騎士道の歴史的なる比較論は興味あることではあるが、詳細にわたりてこれに立ち入ることは本書の目的ではない。私の試みはむし ろ第一に我が武士道の起源および淵源、第二にその特性および教訓、第三にその民衆に及ぼしたる感化、第四にその感化の断続性、永久性を述ぶるにある。(同 前p.26

以上でわかるように本書は歴史的な視点から封建性および騎士道(武士道)を重視せずに、直接武士道という道徳規範としての起源、教訓、感化、感化の断続性を論ずるのである。

6 『武士道』への様々な評価

 本書は出版された直後様々な評価を受けた。次は『武士道』に対する国内外の評価の紹介である。

[1] 日本国外

クロニクル紙カリフォルニア州サンフランシスコ (190024日「日本における武士道の影響」)

と ても面白く示唆にとむ小著述で、知性豊かな日本人だけが書きえた本が『武士道:日本の心、日本思想の解明』文学修士・哲学博士、新渡戸稲造著である。この 本は「宗教教育が、日本の学校では行われていないのに、道徳教育は日本でどのように行なわれているのか」という問いに答えるためにあらわされた。その返答 は、日本の道徳観念や、および日本人の性格中でとくに高貴で心を打つものはすべて、武士道すなわち日本の古い騎士道の、今も生きる伝統と影響によるのだ、 ということである。(佐藤全弘、「『武士道』出版当初の海外評価(上)、p.86)

タイムス紙ワシントンDC (1900年三月十八日)

『武 士道―日本心』はいささか特別の興味を引く本である。それは日本紳士新渡戸稲造の作品だからである。序文の言葉から明らかなように、著者の妻はアメリカ人 で、著者は旧い日本の理念や伝統に敬意を失わぬまま、ある程度西洋思想に共鳴していると思われる。翻訳されている限りでは、武士道はわれわれの騎士道―紳 士たる道―騎士の掟―を意味するように思われる。(佐藤全弘、「『武士道』出版当初の海外評価(上)p.86

以上が米国の評価である。

[2] 日本国内

『武士道』は一次資料を踏まえず著作かあるいは学術的な著作ではないのか

なお、この書では、武士道関係の基本的な一次史料はほとんど踏まえられておらず、新渡戸は武士道の実際には暗かったと考えられる。(宇野田尚哉:「武士道」『日本思想史辞典』p.469

Bushido は日本人向けに武士道を学問的に検証して書かれた学術書ではない。西洋人が日本を知らないことに乗じて書かれた一種の宣伝書である。(平川祐弘「西洋にさらされた日本人の自己主張—新渡戸稲造の『武士道』」p.82)

新渡戸稲造は一次史料を踏まえずに本書を執筆したことが確かである。なぜ一次史料を踏まえなかったのかを次のように述べたい。新渡戸稲造は1899年 アメリカにて療養中で『武士道』を著作したのである。当時どれほどアメリカで日本関係の史料を手に入れることは想像できると思うけれど、まず難しい。特に 古典文献は西洋で手に入れることが不可能と考えてよい。そういう状況で、まず、武士道関係の基本的な一次史料を踏まえないことが事実である。しかし、宇野 田氏が述べていたような「新渡戸は武士道の実際には暗かった」ということに関してはどうも理解できない。なぜなら、先ず、新渡戸稲造は武士の子として生ま れた。幼い頃から武士の子として様々な訓練および教訓を教えてもらった。そして、『武士道』に語った武士たちの名前とその物語に関しては、古典文献にも 合っている。

ま た、『武士道』は「学術書ではない」という評価に対しては、疑問がある。確かに、新渡戸稲造は一次資料を使わずに本書を執筆したが、本書の内容的には様々 な日本思想及び文化の成立に関する偉大な人たち(武士たち、神道、仏教、儒教の関係者)の名前とそれぞれの思想を載せてある。また、西洋の思想あるいは文 化に比較するために様々な文献を取り上げたが、それでも学術書ではないということはどうも理解できないと思う。さらに、平川氏の次の文章に関しては、それ もまた疑問に思った。「武士道」は単なる日本の宣伝書ではない。そのうえ、「西 洋人が日本を知らないことに乗じる」という不正な行為は新渡戸にはとっても恥じることと考える。これはあり得ないと考える。なぜなら次のように述べてい る。『武士道』は出版される前後、日本研究をしている有名な在日西洋人がいた。『武士道』の序文にも書いてあるように彼らの名はラフカディオ・ハーン(1850-1904)、ヒュー・フレザー夫人(?-1922)、サー・アーネスト・サトウ(1843-1929)、チェンバレイン教授(1850-1935)で ある。彼らは日本に関して、また、当時の日本の事情について興味深い、いくつかの英語文著作を執筆した。この人々に対して、新渡戸は賞美している。なの で、英語で『武士道』を執筆した新渡戸は、もし内容的に無責任な著作を執筆すれば、それを彼らに読まれて、どれほど日本人として特に武士の子孫である新渡 戸の恥になるかよく承知していたであろう。

『武士道』に描いた武士像は江戸時代の武士なのか

「新 渡戸がとらえて見せたのは、戦国時代以来の武士の間におのづから芽ばえてきた廉恥の道徳・高貴性の道徳、及びそれを儒教によって根拠づけようとした士道の 考えなのであって、鎌倉時代以来の武者の習いでもなければ、また封建的な上下の秩序をささえる忠孝の道徳でもなかった。新渡戸は士道の摘出によって日本人 の道徳的脊骨を明らかにし、日本人が西洋人の理解しえないような特株な民族でないことを示そうとしたのであった」(和辻哲郎『日本倫理思想史―下巻』p.450

こ の批判に関して和辻の弟子である勝部真長は次のように述べている。「和辻も、新渡戸が『武士道』で日本国民全体の道徳体系を代表させているのがまったく理 解できず、新渡戸が書いた武士道の徳目である「義・勇・仁・礼・誠・名誉」などは、何も武士のみに限らないと強調し、「武士の情け」は、思いやりであろう が、しかし何も思いやりは武士のみでなく、百姓も町人ももっていたであろうと強く批判している[2]。 新渡戸稲造が『武士道』に描いた武士像が戦国時代以来(特に江戸時代)の武士像ということは確かと考えられる。また、日本道徳・倫理は一つの道徳から形成 されるのではなく、様々な社会道徳から形成されたというのが和辻哲郎の考えである。私にとってこれは『武士道』の一つの欠点である。

 以上が『武士道』に対する日本国内外の様々な評価の紹介である。それ以外にももちろん様々な評価があるが、今回は以上のようである。

7 『武士道』の位置づけ

武士道論の中の『武士道』

古川哲史によると「武士道」の語が使われ始めたのは、おおよそ戦国時代の後半ないし末期ごろであり、その後もさして多用されたわけではなく、爆発的に流行するのは明治30年以降という[3]。同じようなことは、明治時代の東京帝国大学教授であったB.H. Chamberlainが書いている[4]。ある意味では、「武士道」という言葉自体はまだそんなに古くはないのではないかと私は思う。しかし、「武士道」と言う言葉は使われなくても、武士とその行動については、古くから伝えられている。「武士道」にかかわる書物は、中世にまでさかのぼる。

 「武士道」論の歴史は「武士」の発生と共にできたと考えても良いであろう。「武士道」の歴史の流れは大きく分ければ、三つに分けられる。

第一は、中世「武士道」であり、平安末期(10世紀後半)の地方の集落に生まれ始めた「武士」から始まり、荘園制度の誕生と共に武士団も成立、団結した武士団は強力になり、幕府を成立させた。この時代は、戦争が多かったため、「武士道」という観念は武士の一人一人の実力を重視することになった。

第二は、近世「武士道」であり、徳川幕府の力で天下を統一して、およそ250年以上の平和の中で武士達は、武士としてのやるべきことは何かと道徳的な「武士道」を考えていた。つまり、近世の武士道論は武士としての道徳的・倫理的な生き方を重視する。

第 三は、近代「武士道」であり、武士社会がなくなると共に、士族階層は近代的な社会にどのように関わっていくのか、が大事な点である。近現代においては、 「国民国家の形成との関わり」、「世界の中での日本を位置づけ」、「日本国民の道徳観との関わり」という様々な変化が見られる。

以上にも述べたように「武士道」用語の由来と「武士道論」について簡単に紹介した。

  新渡戸稲造の『武士道』は、近代に至るまでの「武士道論」に関して大きな役割を果たした。以上にも述べたように本書はアメリカで出版されて、目的は西洋の 読者に対して日本の思想概念あるいは道徳概念を紹介する書である。佐伯真一にとって、武士道が潔癖な倫理・道徳というような印象を持つようになったのは主 に新渡戸『武士道』の影響であると述べた[5]。 確かに、武士道論の歴史の流れによって、武士道論は時代によって異なる。しかし、当時初めて外国語で(英語)日本の文化を紹介する役割を担った本として は、自国の文化を美化することになって当然だと考える。西洋人にまず日本について興味深いという気持ちを持たせたいという狙いがあり得るであろう。

B 新渡戸稲造と日本道徳教育について

8 新渡戸稲造が受けた教育

幼い頃―14歳まで:

武士の教訓、漢学 (当時、新渡戸は末っ子として、母親との関係が非常に良好だった。お母さんも非常に心のやさしい存在であった。母親の存在に対する影響が強くて、後に新渡戸も日本の女性の教育に対して大きな役割を果たした。)

14歳―16歳まで:

東京外語学校で英語を学ぶ(当時、東京では漢学の勉強より、英語の勉強が盛んになり、新渡戸も英語として西洋の学問を身につけようとした。)

16歳―20歳:札幌農業学校で農学を学ぶ、キリスト教信者になり、西洋の哲学などを学ぶ (19歳の時初めてカーライルの「Sartor Resartus」を読んだ。新渡戸はこの哲学者に大きな影響を受けた。)

2330歳:アメリカ・ドイツ留学:農政学、米国でクエーカー派の信者となった。

9 カーライルに学んだ「義務」とキリスト教の「普遍性の愛」

 新渡戸稲造は教育者として熱心である。これは一つの理由としては、カーライルの「衣服哲学」[6]の影響を受けたからである。彼は初めてカーライルの哲学を触れたのが19歳ころだった。当時愛する母親を失い、非常に悲しい状態であった。札幌へ戻る前に、東京によって、そこにカーライル『Sartor Resartus』を手に入れた。カーライルの哲学は新渡戸の心に留まった。愛する母親がなくなってから、新渡戸が自分の人生に対して迷っているうちにカーライルの哲学を理解して、悟りのような光が見えたであろう。彼にとってもっとも印象に残ったのは「義務」についてである。「Do the duty which lies near thee, which thou knowest to be a duty! Thy second duty will already have become clearer.()あなたの一番近くにある義務をやりなさい、そうすれば次の義務は自ら明らかになってくる」[7] と いうカーライルの言葉である。これは彼にとって悟りのようなものであり、自分が日本人として日本人のありかたを行動で示すべきではないかと新渡戸が考えた であろう。これは新渡戸稲造のナショナリズムの一つの起源といえるだろう。カーライルの哲学の影響は大きく、教育者としての道を開いてくれるような存在と 考える。これについては、新渡戸稲造全集第九巻『ファウスト物語・ 衣服哲学講義』によくみられる。彼が一校の校長になった時、よく生徒たちを集めて、カーライルの特別な講義を行った。

 また、新渡戸稲造もキリスト教の一つの教派であるクエーカー派[8]の 理念をかなり影響を受けている。それは人間の一人一人の心には内なる光が宿っている。人間はその光をしたがって生きるべきという考えである。したがって、 キリスト教の基本教義は「普遍的な愛」である。その「普遍的な愛」と「神の愛」で、世界中の人々は救われるという。これは新渡戸稲造の「インターナショナ リズム」の精神の中核になる理念であった。

10 新渡戸稲造による理想的な教育とは何か。

 新渡戸稲造によると、理想的な教育とは「活ける人間を造る」[9]  である。言い換えれば、身に付けた知識や学問などを活用しなければならない。教育者に対して、新渡戸は次のように述べている。「要するに、教育者が注意す べきは、活ける社会に立ち万国に共通し得べく厳正にして自国自己及び自己の思想に恥じず、実際の人生に接して進み、世界人類に貢献する底の人物を造ること に在るなり。」[10] である。この文章から解るように、新渡戸稲造が望んでいる人間像は、自己の思想及び自国思想と文化を守りながら、世界中の人類に貢献できる人物である。これは正に新渡戸稲造の教育に対しての「ナショナリズム」と「インターナショナリズム」の適用ではないかと考える。

なお、佐藤全弘、日本で最も優れた新渡戸稲造の研究者は、新渡戸稲造の理想的な教育に関して、三つの点を述べていた。それは「to know」つまり「知識」、「to do」つまり「実行」、と「to be」つまり「人格」である。では、それぞれの点について以下の引用より説明したい。

「知識」

新 渡戸稲造は盛岡のある田舎での小学校に訪ねた時、子供たちに「なぜ学校へ来るんだろう」と質問した。一人の女子小学生は、「学問を身につけるためです」と 答えた。引き続き、新渡戸は「学問を身につけるのはなぜだろう」とまた質問した。ほかの学生は「知識を磨くためです」と答えた。新渡戸は又、「知識を磨く とはどういう意味なのか」という質問したが、だれも答えてくれなくて、結局、先ほど答えてくれた学生は「私はわかりません」と答えた。このことに関して、 新渡戸は次のように述べている。

「教育の多くは、あるきまり文句を教えられたとおりに機械的にくりかえすことであって、その意味については、若い魂は何一つ解っていないのである。」(新渡戸稲造『編集余録』p.2

新 渡戸が指摘した問題は当時の日本教育の一つの欠点ということが分かる。教師は生徒たちが物事に対してちゃんと理解できるかどか未確認し、物事を記憶するこ と、また繰り返すことに重視したと考えられる。これに関して、佐藤氏によると、新渡戸稲造が日本教育に対して最も批判するのは、日本の教育は「パンの学 問」のようで、パンを得るための学問であり、本当の学問のための学問をしようとしないと述べていた。佐藤氏は又新渡戸稲造が当時の文部省の教育設置基準に 反対したのは、教育の独自性を持たせないからと述べている。つまり、教育の独自性で、生徒たちの「知識」が広まる(常識がある)とこれも新渡戸稲造が最も 尊重主張したことである。

「実行」

「学 問より実行」。これは新渡戸が自ら書いた文章で、現在北海道中央勤労青少年センター(以前新渡戸が開いた遠友夜学校であった)に保管された。学問はただ知 識として習うものではなく、むしろ実行するのも大事という意味を持っている。この「実行」に関して、佐藤氏は、新渡戸は武士道の精神とカーライルの哲学の 影響に与えられたと述べている。新渡戸は学問と実行について以下のように述べている。

学 問は奥の奥まで研究するがよし。されど、身を修る法、心の持ち方などはひたすら実行すべきもので、研究に日を費やすべきものではない。知らんと欲せばまず 行ふべし。理を究めて後に行はんとせば、百年ありても千年ありても不足なるべし。」(新渡戸稲造、「十一月十九日」『一日一言』:十一月十九日)

以上でわかるように、「学問」だけではなく、「実行」を行うことは大事と新渡戸が主張した。

「人格」

新渡戸稲造は教育者として自分の仕事より最も生徒たちの人格形成を重んじている。この「人格」に関して佐藤氏は次のように述べている。

新渡戸が、人格教育を強調しましたのは、日本でもっとも抜けているのは、その人格だからです。ものを知っているというのは、知識です。to knowです。ものを実行するというのは、行為です。to do です。しかし、世の中には、実行のできない人がいます。身体障害者のことを考えてみてください。(中略)そういう時に何が一番大事か。それはただ「ある」ということです。to beで す。何かを知っているということが大事なのではない。教育において、何かをするということが大事なのではない。最も大事なことは、その人が人間として、人 格として、どの一人も皆神から与えられた命を生きている、仏から授かった命を生きている、かけがえのない大事な人間として、そこにあるということです。 (佐藤全弘『新渡戸稲造の信仰と理想』p.376

以上で、佐藤氏が述べた新渡戸稲造の理想的な教育である。

10 日本道徳教育概略史[11]

[] 戦前

日本道徳教育は国家的に明治維新から始まった。当時日本の教育は教育勅語に基づいて行われた。教育勅語は18901023日に明治天皇が下した勅語である。公式には「教育ニ関スル勅語」という。内容はまず、歴代天皇が国家と道徳を確立したと語り起こし、臣民の忠孝心が「国体の精華」であり「教育の淵源」であると規定する。続いて、父母への孝行や夫婦の和合、遵法精神、事あらば国の為に戦う事など12の徳目を並べて(父母に孝、兄弟に友、夫婦の和、朋友の信、謙遜、博愛、修学習業、智能啓発、徳器成就、公益世務、遵法、義勇)、これを守るのが臣民の伝統であるという。当時の道徳教育は「修身」という科目として、小学校と国民学校に教えられた。

[2] 戦後

GHQ は、「修身」という科目が軍国主義教育とみなし、授業を停止することにした。その代りに、教育基本法(1947[12]に よって、日本の教育の目的も変わった。第一条によって(教育目的)、「教育は人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛 し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わればならない」という。そして、1950年代に入り、戦前回帰を志向する「逆コース」の流れの中で、理性ある社会人を育てるものとして改めて復活したのが「道徳」である。

 現在、文部科学省は以下のように説明する。「道徳教育は,児童生徒が人間としての在り方を自覚し,人生をよりよく生きるために,その基盤となる道徳性を育成しようとするものです。」[13] 科目として小学校と中学校に教えなければならない。道徳教育を指導するために次の四点に重視しなければならない。それは、(1「主として自分自身に関すること」、(2)「主として他の人とのかかわりに関すること」、(3)「主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること」、(4)「主として集団や社会とのかかわりに関すること」である。

  以上の説明からわかるように戦前と戦後の道徳教育は非常に異なっている。戦前では、国民の一人一人は臣民であり、人格形成に対しては重視しないことと考え る。しかし、「逆コース」のように戦後の道徳教育は、西洋の自由主義と利己主義の方に重点が傾いていると考えられる。両方とも欠点があると思うけれど、両 方の徳点を合わせば、いかにも理想的な道徳理念になるではないかと考える。

11 新渡戸稲造の提案

日本人でありながら世界市民である

 日本の教育に対して最も留意する新渡戸稲造は教育勅語について次のように述べている。

す でに見たように、国民倫理体系は忠君愛国を強制したが、これまでその目標に達したことはなかった。こんな体系は狭い基礎に立てられているから、人間の魂に は狭すぎる。-もちろん失敗するにきまっている。(中略)その名に直する宗教は、全人を認めなければならぬ。そして国家は、人間の全体を包括しはしない。 人間は国家より大きい。人間は自分の内に、この世の国や、国家の一切の主張を超越するものを待っている。人間の無限の魂を、国家の限られた枠組の中に閉じ 込めることはできない。」(新渡戸稲造『日本』p.265

以 上で述べるように新渡戸は教育勅語のような強制的な教育は反対している。彼にとって、人間の魂は無限で、国家はそれを支配できない。新渡戸にとって、日本 人の一人一人の魂は日本という国家より大きなものであり、つまり日本人も世界共同体系の市民である。しかし、新渡戸も自分が日本人という国民性を持つこと は自然であり、それを捨てることができない。これに対して新渡戸が次のように述べている。

我 輩の勤めている役所[国際連盟]に来ている人々は公式にその国の政府から任命されたるものではないから、国家または政府を代表するものではないが、国民そ のものはこれを代表せざるを得ない。政府はこれを任命しないとしても、これを推薦するのであるから自分の国民を辱めるような人を出すはずはない。従ってこ の役所に集まってくる人々は、国民性の長所を備えているものであるというも過言であるまい。(新渡戸稲造、「真の愛国心」『実業之日本』)

以上に述べたように、いくら世界市民になっても、日本人は自分の国民性及びアイデンティティーを見捨てることができない。

『武士道』は理想的な日本道徳教育のプロトタイプ

  新渡戸が理想的な日本教育に対して、最も主張しているのは人間の一人一人が自由な精神で人格形成することである。人間の精神あるいは人格形成を最も養うこ とができるものは宗教の教育である。これは今まで日本の教育の欠点であると考える。なぜ宗教なのか。宗教の教義によって、人間の魂は養うことができる。ど んな宗教でもいい。一番大切なのは世界中の人々の道徳に対して共通点があり、また人間の魂あるいは命を大事にすることも一つの条件であると考える。

  『武士道』では、日本独特な文化あるいは思想を深く論じている著作でありながら、世界中に共通点がたくさんある様々な宗教や思想なども含んでいる。これ は、日本人の人格形成にとって最も適当なプロトタイプではないかと考える。日本人として国民性を守りながら、世界の市民という立場として世界の平和にもっ と貢献できるのではないかと信じている。



[1] 新渡戸稲造(著)矢内原忠雄(訳)『武士道』、岩波文庫、1974

[2] 勝部真長、『和辻倫理学のノート』東京書籍、1979P.161

[3] 古川哲史『日本倫理研究2、武士道の思想とその周辺』福村書店、1957

[4] B.H. Chamberlain “The Invention of New Religion”, London, 1912

[5] 佐伯真一『戦場の精神史、武士道という幻影』NHK BOOKS, p.253

[6] 「衣服哲学」とは服のようなもの、現実と外見は必ずしも同じものではない。これはカーライルが生きていた時代(英国のビクトリアん時代)の教会あるいは政府の存在を示している。参考:『Sartor Resartus: Book II Chapter 8, Natural and Supernaturalism”

[7] Thomas Carlyle “Sartor Resartus: Book II, Chapter 9 Circumspective”, Project Gutenberg E-text

[8] クエーカー(Quaker)あるいはキリスト友会とはキリスト教―プロテスタンの一つの教派である。17世紀にイングランドで作られた宗教団体である。「内なる光」という理念を重んじている。新渡戸稲造は日本の初めてのクエーカー教徒である。

[9] 新渡戸稲造『精神修養』二巻八号、191181

[10] 同上

[11] 日本教育概略史関する資料は 文部科学省HPhttp://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198103/index.html 

[12] 文部科学省HP「教育基本法資料室」http://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/data/index.htm

[13] 文部科学省HP「道徳教育について」http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/doutoku/07020611/001.htm