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Full-time Lecturer Department of Japanese Studies Airlangga University, Indonesia. Curently as a Research Student at Graduate School of Arts and Letters Tohoku University, Japan. Also Visit: http://pujopurnomo.multiply.com/

2007年12月13日木曜日

新渡戸稲造『武士道』と日本道徳教育の問題をめぐって

新渡戸稲造『武士道』と日本道徳教育の問題をめぐって



Antonius R. Pujo Purnomo, M.A.
国立アイルランガ大学

はじめに

文明開化という精神を抱いている明治の知識人たちの中に新渡戸稲造がいた。新渡戸稲造(18621933)は教育者でありながら行政官として日本の歴史上で重要な役割を果たした。今回の研究テーマは「新渡戸稲造『武士道』と日本道徳教育の問題をめぐって」である。なぜ今『武士道』を取り上げたのか。新渡戸は『武士道』(1900) を通して初めて英語で日本人のアイデンティティーを外国人に紹介した。本書は単なる英語での日本紹介ではなく、この著書には日本人の「精神」、「夢」、さ らに「道徳規範」という様々な意味が含まれている。確かに、「武士道」という言葉自体はもうすでに消え去った封建時代の香りが強いが、それは新渡戸稲造の 『武士道』とは異なる。『武士道』は「道徳規範」として、現在日本の道徳教育問題に対して、有効なアイデアを含んでいる。その含まれた道徳理念と新渡戸稲 造における教育理想をいま再考察してみたい。

A 新渡戸稲造と『武士道』

1 新渡戸稲造の生涯

新渡戸稲造(1862-1933)は教育者、外交官としてよく知られている。南部藩士の子として盛岡で生まれ、祖父は三本木開拓の大功労者として知られている。父の十次郎と祖父の伝は稲造がまだ幼いころに亡くなるため、彼は叔父の太田時敏と一緒に上京、時敏の養子になり、太田稲造と改名した。1877年第二期生として、札幌農学校に入学、内村鑑三らと共にキリスト教に入信した。卒業後、開拓使勧業課に勤務され、その2年後(1883)東京帝国大学に入学した。1884年 東大退学、私費留学生として米渡した。米国留学中、クエーカー(キリスト教派)となった。また渡独、農政学を学び、帰国後、札幌農学校の教授となった。そ の後、台湾総督府技官、京都帝国大学教授、第一高等学校校長、東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長、国際連盟事務次長などを歴任した。新渡戸はカナダ のビクトリア市で、72歳で客死した。

2 『武士道』の誕生

『武士道』、原題は“Bushido: The Soul of Japan, An Exposition of Japanese Thought, (武士道:日本の精神、日本思想の解説)、は新渡戸稲造が明治31年(1899年)に書いて、本書は明治32年(1900年)に The Leeds and Biddle Company, Philadelphia,USAから出版された。新渡戸稲造は本書を通して、欧米人に日本の道徳及び思想を紹介した。『武士道』の内容は大きく分けると、四つの部分があり、それは、(1)武士道の入門(第一章 道徳体系対して武士道、第二章 武士道の淵源)、(2)武士道の徳目(第三章~第九章 義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義)、(3)武士の生活との関連のものごと(第十章 武士道の教育及び訓練、第十一章 克己、第十二章 自殺及び復仇の制度、第十三章 刀;武士の魂、第十四章 婦人の教育及び地位)、(4)武士道の将来(第十五章 武士道の感化、第十六章 武士道はまだ生きているのか、第十七章 武士道の将来)である。

武士道の第一版の序文には新渡戸が『武士道』を書くきっかけとなった二点について述べている。即ち、(一)武士道を書く前のおよそ十数年前、188711月、新渡戸がドイツに留学中のとき、二日間ぐらいベルギーの法政学者の E.L.V. ド ラベライ (1822-1892)の 自宅を訪ねた。その際、いろいろな話題の話をした時、宗教のことにたどりついた。ベルギーの法学者は「もし宗教がなかったら、どのように道徳を教えられる のか。」と聞いた。その質問に対して稲造は答えられなかった。その後、およそ十数年間、質問に対しての答えを考えていた。(二)アメリカ出身の婦人のメー リー・エルキントン・パルキンソンと出会ってから、しばしば日本の文化あるいは思想について聞かれたときに充分に答えられなかったようだ。 この二つの理 由で新渡戸稲造は日本の道徳観をまとめて、『武士道』を書き上げた。

な お、新渡戸の『武士道』がどういう中身なのかは、省略する。新渡戸はヨーロッパの騎士道を比較しながら武士道を語っている。武士を産んだのは封建制度であ り、母である封建制度が滅ぶと同時に武士道という道徳体系も消えた。そして、武士道の起源となったのは仏教、神道と儒教である。仏教からの教えは、例え ば、運命に任すという平静なる感覚、不可避に対する静かなる服従、危険災禍に直面してのストイック的なる沈着、生を賤しみ死を親しむ心である。神道の教え は主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、並に親に対する孝行である。最後に儒教の教えは道徳的な教義にもっとも豊かな起源であり、それは孔子が説いた君 臣、父子、夫婦、長幼、ならび朋友間という五倫の道である。また、「義」を中心にして勇・仁・礼・誠と名誉を深く重んじている。これらの教義はむしろヨー ロッパの騎士道と共通点がたくさんある。しかし、武士道にはないものはキリスト教の理念になる「愛」である。武士道にもこのような理念および教義が含め ば、きっともっと素晴らしいものになるではないかと新渡戸稲造が武士道について述べている。さらに、新渡戸は現在武士道という体系としては、封建制度と同 時に消え去ったが、その道徳の精神は国民の心に浸透して、いつも日本の国民の行く道を照らしていると最後に述べている。

3 日本道徳教育書としての『武士道』

「宗 教なし!どうして道徳教育を受けるのですか」と、繰り返し言ったその声を私は容易に忘れ得ない。当時この質問は私をまごつかせた。私はこれに即答できな かった。というのは、私が少年時代に学んだ道徳の教えは学校で教えられたのではなかったから。私は、私の正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析を 始めてから、これらの観念を私の鼻腔に吹き込んだものは武士道であることをようやく見いだしたのである。(中略)しかして封建制度及び武士道を解するなく んば、現代日本の道徳観念は結局封印せられし巻物であることを知った[1](新渡戸稲造『武士道』」第一版「序」、p.11)

新渡戸によると武士道は日本人の生活上の行動を整える道徳的な規範が含まれている。これは西洋の学校で与える宗教の授業と同じ目的である。それは子供たちの心に倫理あるいは道徳教育を植え付けることである。

4 西洋の読者のために書かれた『武士道』

この著述の全体を通して、私は自分の論証する焦点をばヨーロッパの歴史および文学からの類例を引いて説明することを試みた。それはこの問題をば外国の読者の理解に近づけるに役立つと信じたからである。(新渡戸稲造『武士道』、p.12

以 上に述べたように、『武士道』を著作する目的は日本人のためではなく、日本に対する知識のない西洋人のためである。なので、同じ日本人でも「武士道」に関 する知識の相異があるということは当然である。新渡戸は本書に対して、様々な論争点がきっと発生するということが理解して、『武士道』の第一版から6年後、次のように述べている。

本書に触れてあるすべての問題に対しても、もちろん、その応用および議論をさらに進める余地がある。しかし本書を現在以上の大きいものとすることには支障がある。(新渡戸稲造『武士道』増訂第十版序、p.15

5 日本および西洋の歴史的な封建時代と騎士道について論ずることは『武士道』の目的ではない

ヨー ロッパと日本の封建制および騎士道の歴史的なる比較論は興味あることではあるが、詳細にわたりてこれに立ち入ることは本書の目的ではない。私の試みはむし ろ第一に我が武士道の起源および淵源、第二にその特性および教訓、第三にその民衆に及ぼしたる感化、第四にその感化の断続性、永久性を述ぶるにある。(同 前p.26

以上でわかるように本書は歴史的な視点から封建性および騎士道(武士道)を重視せずに、直接武士道という道徳規範としての起源、教訓、感化、感化の断続性を論ずるのである。

6 『武士道』への様々な評価

 本書は出版された直後様々な評価を受けた。次は『武士道』に対する国内外の評価の紹介である。

[1] 日本国外

クロニクル紙カリフォルニア州サンフランシスコ (190024日「日本における武士道の影響」)

と ても面白く示唆にとむ小著述で、知性豊かな日本人だけが書きえた本が『武士道:日本の心、日本思想の解明』文学修士・哲学博士、新渡戸稲造著である。この 本は「宗教教育が、日本の学校では行われていないのに、道徳教育は日本でどのように行なわれているのか」という問いに答えるためにあらわされた。その返答 は、日本の道徳観念や、および日本人の性格中でとくに高貴で心を打つものはすべて、武士道すなわち日本の古い騎士道の、今も生きる伝統と影響によるのだ、 ということである。(佐藤全弘、「『武士道』出版当初の海外評価(上)、p.86)

タイムス紙ワシントンDC (1900年三月十八日)

『武 士道―日本心』はいささか特別の興味を引く本である。それは日本紳士新渡戸稲造の作品だからである。序文の言葉から明らかなように、著者の妻はアメリカ人 で、著者は旧い日本の理念や伝統に敬意を失わぬまま、ある程度西洋思想に共鳴していると思われる。翻訳されている限りでは、武士道はわれわれの騎士道―紳 士たる道―騎士の掟―を意味するように思われる。(佐藤全弘、「『武士道』出版当初の海外評価(上)p.86

以上が米国の評価である。

[2] 日本国内

『武士道』は一次資料を踏まえず著作かあるいは学術的な著作ではないのか

なお、この書では、武士道関係の基本的な一次史料はほとんど踏まえられておらず、新渡戸は武士道の実際には暗かったと考えられる。(宇野田尚哉:「武士道」『日本思想史辞典』p.469

Bushido は日本人向けに武士道を学問的に検証して書かれた学術書ではない。西洋人が日本を知らないことに乗じて書かれた一種の宣伝書である。(平川祐弘「西洋にさらされた日本人の自己主張—新渡戸稲造の『武士道』」p.82)

新渡戸稲造は一次史料を踏まえずに本書を執筆したことが確かである。なぜ一次史料を踏まえなかったのかを次のように述べたい。新渡戸稲造は1899年 アメリカにて療養中で『武士道』を著作したのである。当時どれほどアメリカで日本関係の史料を手に入れることは想像できると思うけれど、まず難しい。特に 古典文献は西洋で手に入れることが不可能と考えてよい。そういう状況で、まず、武士道関係の基本的な一次史料を踏まえないことが事実である。しかし、宇野 田氏が述べていたような「新渡戸は武士道の実際には暗かった」ということに関してはどうも理解できない。なぜなら、先ず、新渡戸稲造は武士の子として生ま れた。幼い頃から武士の子として様々な訓練および教訓を教えてもらった。そして、『武士道』に語った武士たちの名前とその物語に関しては、古典文献にも 合っている。

ま た、『武士道』は「学術書ではない」という評価に対しては、疑問がある。確かに、新渡戸稲造は一次資料を使わずに本書を執筆したが、本書の内容的には様々 な日本思想及び文化の成立に関する偉大な人たち(武士たち、神道、仏教、儒教の関係者)の名前とそれぞれの思想を載せてある。また、西洋の思想あるいは文 化に比較するために様々な文献を取り上げたが、それでも学術書ではないということはどうも理解できないと思う。さらに、平川氏の次の文章に関しては、それ もまた疑問に思った。「武士道」は単なる日本の宣伝書ではない。そのうえ、「西 洋人が日本を知らないことに乗じる」という不正な行為は新渡戸にはとっても恥じることと考える。これはあり得ないと考える。なぜなら次のように述べてい る。『武士道』は出版される前後、日本研究をしている有名な在日西洋人がいた。『武士道』の序文にも書いてあるように彼らの名はラフカディオ・ハーン(1850-1904)、ヒュー・フレザー夫人(?-1922)、サー・アーネスト・サトウ(1843-1929)、チェンバレイン教授(1850-1935)で ある。彼らは日本に関して、また、当時の日本の事情について興味深い、いくつかの英語文著作を執筆した。この人々に対して、新渡戸は賞美している。なの で、英語で『武士道』を執筆した新渡戸は、もし内容的に無責任な著作を執筆すれば、それを彼らに読まれて、どれほど日本人として特に武士の子孫である新渡 戸の恥になるかよく承知していたであろう。

『武士道』に描いた武士像は江戸時代の武士なのか

「新 渡戸がとらえて見せたのは、戦国時代以来の武士の間におのづから芽ばえてきた廉恥の道徳・高貴性の道徳、及びそれを儒教によって根拠づけようとした士道の 考えなのであって、鎌倉時代以来の武者の習いでもなければ、また封建的な上下の秩序をささえる忠孝の道徳でもなかった。新渡戸は士道の摘出によって日本人 の道徳的脊骨を明らかにし、日本人が西洋人の理解しえないような特株な民族でないことを示そうとしたのであった」(和辻哲郎『日本倫理思想史―下巻』p.450

こ の批判に関して和辻の弟子である勝部真長は次のように述べている。「和辻も、新渡戸が『武士道』で日本国民全体の道徳体系を代表させているのがまったく理 解できず、新渡戸が書いた武士道の徳目である「義・勇・仁・礼・誠・名誉」などは、何も武士のみに限らないと強調し、「武士の情け」は、思いやりであろう が、しかし何も思いやりは武士のみでなく、百姓も町人ももっていたであろうと強く批判している[2]。 新渡戸稲造が『武士道』に描いた武士像が戦国時代以来(特に江戸時代)の武士像ということは確かと考えられる。また、日本道徳・倫理は一つの道徳から形成 されるのではなく、様々な社会道徳から形成されたというのが和辻哲郎の考えである。私にとってこれは『武士道』の一つの欠点である。

 以上が『武士道』に対する日本国内外の様々な評価の紹介である。それ以外にももちろん様々な評価があるが、今回は以上のようである。

7 『武士道』の位置づけ

武士道論の中の『武士道』

古川哲史によると「武士道」の語が使われ始めたのは、おおよそ戦国時代の後半ないし末期ごろであり、その後もさして多用されたわけではなく、爆発的に流行するのは明治30年以降という[3]。同じようなことは、明治時代の東京帝国大学教授であったB.H. Chamberlainが書いている[4]。ある意味では、「武士道」という言葉自体はまだそんなに古くはないのではないかと私は思う。しかし、「武士道」と言う言葉は使われなくても、武士とその行動については、古くから伝えられている。「武士道」にかかわる書物は、中世にまでさかのぼる。

 「武士道」論の歴史は「武士」の発生と共にできたと考えても良いであろう。「武士道」の歴史の流れは大きく分ければ、三つに分けられる。

第一は、中世「武士道」であり、平安末期(10世紀後半)の地方の集落に生まれ始めた「武士」から始まり、荘園制度の誕生と共に武士団も成立、団結した武士団は強力になり、幕府を成立させた。この時代は、戦争が多かったため、「武士道」という観念は武士の一人一人の実力を重視することになった。

第二は、近世「武士道」であり、徳川幕府の力で天下を統一して、およそ250年以上の平和の中で武士達は、武士としてのやるべきことは何かと道徳的な「武士道」を考えていた。つまり、近世の武士道論は武士としての道徳的・倫理的な生き方を重視する。

第 三は、近代「武士道」であり、武士社会がなくなると共に、士族階層は近代的な社会にどのように関わっていくのか、が大事な点である。近現代においては、 「国民国家の形成との関わり」、「世界の中での日本を位置づけ」、「日本国民の道徳観との関わり」という様々な変化が見られる。

以上にも述べたように「武士道」用語の由来と「武士道論」について簡単に紹介した。

  新渡戸稲造の『武士道』は、近代に至るまでの「武士道論」に関して大きな役割を果たした。以上にも述べたように本書はアメリカで出版されて、目的は西洋の 読者に対して日本の思想概念あるいは道徳概念を紹介する書である。佐伯真一にとって、武士道が潔癖な倫理・道徳というような印象を持つようになったのは主 に新渡戸『武士道』の影響であると述べた[5]。 確かに、武士道論の歴史の流れによって、武士道論は時代によって異なる。しかし、当時初めて外国語で(英語)日本の文化を紹介する役割を担った本として は、自国の文化を美化することになって当然だと考える。西洋人にまず日本について興味深いという気持ちを持たせたいという狙いがあり得るであろう。

B 新渡戸稲造と日本道徳教育について

8 新渡戸稲造が受けた教育

幼い頃―14歳まで:

武士の教訓、漢学 (当時、新渡戸は末っ子として、母親との関係が非常に良好だった。お母さんも非常に心のやさしい存在であった。母親の存在に対する影響が強くて、後に新渡戸も日本の女性の教育に対して大きな役割を果たした。)

14歳―16歳まで:

東京外語学校で英語を学ぶ(当時、東京では漢学の勉強より、英語の勉強が盛んになり、新渡戸も英語として西洋の学問を身につけようとした。)

16歳―20歳:札幌農業学校で農学を学ぶ、キリスト教信者になり、西洋の哲学などを学ぶ (19歳の時初めてカーライルの「Sartor Resartus」を読んだ。新渡戸はこの哲学者に大きな影響を受けた。)

2330歳:アメリカ・ドイツ留学:農政学、米国でクエーカー派の信者となった。

9 カーライルに学んだ「義務」とキリスト教の「普遍性の愛」

 新渡戸稲造は教育者として熱心である。これは一つの理由としては、カーライルの「衣服哲学」[6]の影響を受けたからである。彼は初めてカーライルの哲学を触れたのが19歳ころだった。当時愛する母親を失い、非常に悲しい状態であった。札幌へ戻る前に、東京によって、そこにカーライル『Sartor Resartus』を手に入れた。カーライルの哲学は新渡戸の心に留まった。愛する母親がなくなってから、新渡戸が自分の人生に対して迷っているうちにカーライルの哲学を理解して、悟りのような光が見えたであろう。彼にとってもっとも印象に残ったのは「義務」についてである。「Do the duty which lies near thee, which thou knowest to be a duty! Thy second duty will already have become clearer.()あなたの一番近くにある義務をやりなさい、そうすれば次の義務は自ら明らかになってくる」[7] と いうカーライルの言葉である。これは彼にとって悟りのようなものであり、自分が日本人として日本人のありかたを行動で示すべきではないかと新渡戸が考えた であろう。これは新渡戸稲造のナショナリズムの一つの起源といえるだろう。カーライルの哲学の影響は大きく、教育者としての道を開いてくれるような存在と 考える。これについては、新渡戸稲造全集第九巻『ファウスト物語・ 衣服哲学講義』によくみられる。彼が一校の校長になった時、よく生徒たちを集めて、カーライルの特別な講義を行った。

 また、新渡戸稲造もキリスト教の一つの教派であるクエーカー派[8]の 理念をかなり影響を受けている。それは人間の一人一人の心には内なる光が宿っている。人間はその光をしたがって生きるべきという考えである。したがって、 キリスト教の基本教義は「普遍的な愛」である。その「普遍的な愛」と「神の愛」で、世界中の人々は救われるという。これは新渡戸稲造の「インターナショナ リズム」の精神の中核になる理念であった。

10 新渡戸稲造による理想的な教育とは何か。

 新渡戸稲造によると、理想的な教育とは「活ける人間を造る」[9]  である。言い換えれば、身に付けた知識や学問などを活用しなければならない。教育者に対して、新渡戸は次のように述べている。「要するに、教育者が注意す べきは、活ける社会に立ち万国に共通し得べく厳正にして自国自己及び自己の思想に恥じず、実際の人生に接して進み、世界人類に貢献する底の人物を造ること に在るなり。」[10] である。この文章から解るように、新渡戸稲造が望んでいる人間像は、自己の思想及び自国思想と文化を守りながら、世界中の人類に貢献できる人物である。これは正に新渡戸稲造の教育に対しての「ナショナリズム」と「インターナショナリズム」の適用ではないかと考える。

なお、佐藤全弘、日本で最も優れた新渡戸稲造の研究者は、新渡戸稲造の理想的な教育に関して、三つの点を述べていた。それは「to know」つまり「知識」、「to do」つまり「実行」、と「to be」つまり「人格」である。では、それぞれの点について以下の引用より説明したい。

「知識」

新 渡戸稲造は盛岡のある田舎での小学校に訪ねた時、子供たちに「なぜ学校へ来るんだろう」と質問した。一人の女子小学生は、「学問を身につけるためです」と 答えた。引き続き、新渡戸は「学問を身につけるのはなぜだろう」とまた質問した。ほかの学生は「知識を磨くためです」と答えた。新渡戸は又、「知識を磨く とはどういう意味なのか」という質問したが、だれも答えてくれなくて、結局、先ほど答えてくれた学生は「私はわかりません」と答えた。このことに関して、 新渡戸は次のように述べている。

「教育の多くは、あるきまり文句を教えられたとおりに機械的にくりかえすことであって、その意味については、若い魂は何一つ解っていないのである。」(新渡戸稲造『編集余録』p.2

新 渡戸が指摘した問題は当時の日本教育の一つの欠点ということが分かる。教師は生徒たちが物事に対してちゃんと理解できるかどか未確認し、物事を記憶するこ と、また繰り返すことに重視したと考えられる。これに関して、佐藤氏によると、新渡戸稲造が日本教育に対して最も批判するのは、日本の教育は「パンの学 問」のようで、パンを得るための学問であり、本当の学問のための学問をしようとしないと述べていた。佐藤氏は又新渡戸稲造が当時の文部省の教育設置基準に 反対したのは、教育の独自性を持たせないからと述べている。つまり、教育の独自性で、生徒たちの「知識」が広まる(常識がある)とこれも新渡戸稲造が最も 尊重主張したことである。

「実行」

「学 問より実行」。これは新渡戸が自ら書いた文章で、現在北海道中央勤労青少年センター(以前新渡戸が開いた遠友夜学校であった)に保管された。学問はただ知 識として習うものではなく、むしろ実行するのも大事という意味を持っている。この「実行」に関して、佐藤氏は、新渡戸は武士道の精神とカーライルの哲学の 影響に与えられたと述べている。新渡戸は学問と実行について以下のように述べている。

学 問は奥の奥まで研究するがよし。されど、身を修る法、心の持ち方などはひたすら実行すべきもので、研究に日を費やすべきものではない。知らんと欲せばまず 行ふべし。理を究めて後に行はんとせば、百年ありても千年ありても不足なるべし。」(新渡戸稲造、「十一月十九日」『一日一言』:十一月十九日)

以上でわかるように、「学問」だけではなく、「実行」を行うことは大事と新渡戸が主張した。

「人格」

新渡戸稲造は教育者として自分の仕事より最も生徒たちの人格形成を重んじている。この「人格」に関して佐藤氏は次のように述べている。

新渡戸が、人格教育を強調しましたのは、日本でもっとも抜けているのは、その人格だからです。ものを知っているというのは、知識です。to knowです。ものを実行するというのは、行為です。to do です。しかし、世の中には、実行のできない人がいます。身体障害者のことを考えてみてください。(中略)そういう時に何が一番大事か。それはただ「ある」ということです。to beで す。何かを知っているということが大事なのではない。教育において、何かをするということが大事なのではない。最も大事なことは、その人が人間として、人 格として、どの一人も皆神から与えられた命を生きている、仏から授かった命を生きている、かけがえのない大事な人間として、そこにあるということです。 (佐藤全弘『新渡戸稲造の信仰と理想』p.376

以上で、佐藤氏が述べた新渡戸稲造の理想的な教育である。

10 日本道徳教育概略史[11]

[] 戦前

日本道徳教育は国家的に明治維新から始まった。当時日本の教育は教育勅語に基づいて行われた。教育勅語は18901023日に明治天皇が下した勅語である。公式には「教育ニ関スル勅語」という。内容はまず、歴代天皇が国家と道徳を確立したと語り起こし、臣民の忠孝心が「国体の精華」であり「教育の淵源」であると規定する。続いて、父母への孝行や夫婦の和合、遵法精神、事あらば国の為に戦う事など12の徳目を並べて(父母に孝、兄弟に友、夫婦の和、朋友の信、謙遜、博愛、修学習業、智能啓発、徳器成就、公益世務、遵法、義勇)、これを守るのが臣民の伝統であるという。当時の道徳教育は「修身」という科目として、小学校と国民学校に教えられた。

[2] 戦後

GHQ は、「修身」という科目が軍国主義教育とみなし、授業を停止することにした。その代りに、教育基本法(1947[12]に よって、日本の教育の目的も変わった。第一条によって(教育目的)、「教育は人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛 し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わればならない」という。そして、1950年代に入り、戦前回帰を志向する「逆コース」の流れの中で、理性ある社会人を育てるものとして改めて復活したのが「道徳」である。

 現在、文部科学省は以下のように説明する。「道徳教育は,児童生徒が人間としての在り方を自覚し,人生をよりよく生きるために,その基盤となる道徳性を育成しようとするものです。」[13] 科目として小学校と中学校に教えなければならない。道徳教育を指導するために次の四点に重視しなければならない。それは、(1「主として自分自身に関すること」、(2)「主として他の人とのかかわりに関すること」、(3)「主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること」、(4)「主として集団や社会とのかかわりに関すること」である。

  以上の説明からわかるように戦前と戦後の道徳教育は非常に異なっている。戦前では、国民の一人一人は臣民であり、人格形成に対しては重視しないことと考え る。しかし、「逆コース」のように戦後の道徳教育は、西洋の自由主義と利己主義の方に重点が傾いていると考えられる。両方とも欠点があると思うけれど、両 方の徳点を合わせば、いかにも理想的な道徳理念になるではないかと考える。

11 新渡戸稲造の提案

日本人でありながら世界市民である

 日本の教育に対して最も留意する新渡戸稲造は教育勅語について次のように述べている。

す でに見たように、国民倫理体系は忠君愛国を強制したが、これまでその目標に達したことはなかった。こんな体系は狭い基礎に立てられているから、人間の魂に は狭すぎる。-もちろん失敗するにきまっている。(中略)その名に直する宗教は、全人を認めなければならぬ。そして国家は、人間の全体を包括しはしない。 人間は国家より大きい。人間は自分の内に、この世の国や、国家の一切の主張を超越するものを待っている。人間の無限の魂を、国家の限られた枠組の中に閉じ 込めることはできない。」(新渡戸稲造『日本』p.265

以 上で述べるように新渡戸は教育勅語のような強制的な教育は反対している。彼にとって、人間の魂は無限で、国家はそれを支配できない。新渡戸にとって、日本 人の一人一人の魂は日本という国家より大きなものであり、つまり日本人も世界共同体系の市民である。しかし、新渡戸も自分が日本人という国民性を持つこと は自然であり、それを捨てることができない。これに対して新渡戸が次のように述べている。

我 輩の勤めている役所[国際連盟]に来ている人々は公式にその国の政府から任命されたるものではないから、国家または政府を代表するものではないが、国民そ のものはこれを代表せざるを得ない。政府はこれを任命しないとしても、これを推薦するのであるから自分の国民を辱めるような人を出すはずはない。従ってこ の役所に集まってくる人々は、国民性の長所を備えているものであるというも過言であるまい。(新渡戸稲造、「真の愛国心」『実業之日本』)

以上に述べたように、いくら世界市民になっても、日本人は自分の国民性及びアイデンティティーを見捨てることができない。

『武士道』は理想的な日本道徳教育のプロトタイプ

  新渡戸が理想的な日本教育に対して、最も主張しているのは人間の一人一人が自由な精神で人格形成することである。人間の精神あるいは人格形成を最も養うこ とができるものは宗教の教育である。これは今まで日本の教育の欠点であると考える。なぜ宗教なのか。宗教の教義によって、人間の魂は養うことができる。ど んな宗教でもいい。一番大切なのは世界中の人々の道徳に対して共通点があり、また人間の魂あるいは命を大事にすることも一つの条件であると考える。

  『武士道』では、日本独特な文化あるいは思想を深く論じている著作でありながら、世界中に共通点がたくさんある様々な宗教や思想なども含んでいる。これ は、日本人の人格形成にとって最も適当なプロトタイプではないかと考える。日本人として国民性を守りながら、世界の市民という立場として世界の平和にもっ と貢献できるのではないかと信じている。



[1] 新渡戸稲造(著)矢内原忠雄(訳)『武士道』、岩波文庫、1974

[2] 勝部真長、『和辻倫理学のノート』東京書籍、1979P.161

[3] 古川哲史『日本倫理研究2、武士道の思想とその周辺』福村書店、1957

[4] B.H. Chamberlain “The Invention of New Religion”, London, 1912

[5] 佐伯真一『戦場の精神史、武士道という幻影』NHK BOOKS, p.253

[6] 「衣服哲学」とは服のようなもの、現実と外見は必ずしも同じものではない。これはカーライルが生きていた時代(英国のビクトリアん時代)の教会あるいは政府の存在を示している。参考:『Sartor Resartus: Book II Chapter 8, Natural and Supernaturalism”

[7] Thomas Carlyle “Sartor Resartus: Book II, Chapter 9 Circumspective”, Project Gutenberg E-text

[8] クエーカー(Quaker)あるいはキリスト友会とはキリスト教―プロテスタンの一つの教派である。17世紀にイングランドで作られた宗教団体である。「内なる光」という理念を重んじている。新渡戸稲造は日本の初めてのクエーカー教徒である。

[9] 新渡戸稲造『精神修養』二巻八号、191181

[10] 同上

[11] 日本教育概略史関する資料は 文部科学省HPhttp://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198103/index.html 

[12] 文部科学省HP「教育基本法資料室」http://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/data/index.htm

[13] 文部科学省HP「道徳教育について」http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/doutoku/07020611/001.htm


2007年5月17日木曜日

武士道の歴史と新渡戸稲造『武士道』の位置

武士道の歴史と新渡戸稲造『武士道』の位置

Antonius R. Pujo Purnomo, M.A.
国立アイルランガ大学

1.1 「武士道」とは何か
 「武士道」とは何か。このような言葉を聞くときに、まず、頭に思い浮かぶのは、戦国時代に戦闘に行く侍の姿、そして、英文で書かれた新渡戸稲造“Bushido: The Soul of Japan”( 武士道:日本の精神)である。最近、2003年末に公開された“The Last Samurai ”(ラスト・サムライ)の影響で、新渡戸稲造の『武士道』も再び読まれているそうだ。「武士道」の意味について辞書の記述をあげる。

① 『第六版岩波国語辞典』による
  武士、(-道)、武士階級の間に発達した道徳律。忠義・名誉・尚武を重んずる。
② “Japan, An Illustrated Encyclopedia”(Kodansha International, Tokyo,1993)  による
Bushido. (Literally,”the Way [do] of the Warrior [bushi]”) A term that came into common use during the Edo period (1600-1868) to designate the ethical code of the rulling samurai class. Bushido involved not only martial spirit and skill with weapons, but also absolute loyalty to one’s lord, a strong sense of personal honor, devotion to duty, and the courage, if required, to sacrifice one’s life in battle or in ritual suicide.

「武士道」とは何か、この二つの辞書によると、大体みんな、武士社会あるいは武士階級において形成された武士のための道徳・倫理などと記している。
 一体「武士道」とは何か。古川哲史によると「武士道」の語が使われ始めたのは、おおよそ戦国時代の後半ないし末期ごろであり、その後もさして多用されたわけではなく、爆発的に流行するのは明治30年以降という[1]。同じようなことは、明治時代の東京帝国大学教授であったB.H. Chamberlainが書いている[2]。ある意味では、「武士道」という言葉自体はまだそんなに古くはないのではないかと私は思う。しかし、「武士道」と言う言葉は使われなくても、武士とその行動については、古くから伝えられている。「武士道」にかかわる書物は、中世にまでさかのぼる。
 「武士道」とは何かという質問に対しては、時代、人によって、意見は異なると思う。中世文学者の佐伯真一は「武士道」という言葉をどのように理解すればいいのか、次のように述べている。

「武士道とは何か」と言う質問に対して、現在、明確な解答は困難であると言うことだった。「武士道」とは、ある者にとっては日本固有の武士の思想のことであり、ある論者にとっては、儒教の日本的変容のことであり、ある論者にとっては自立した個人を基礎とした主従関係のことであり、ある論者にとっては主君と惚れ合う男と男の関係のことであり、ある論者にとっては支配階級としての責任感のことであり、ある論者にとっては虚飾を排する潔い姿勢のことであり、ある論者にとっては敵に対して正々堂々たる戦いを挑む倫理観のことであり、ある論者にとっては鎧の色目などにも気を配る美意識のことである[3]

佐伯はまた、「中世末期の「武士道」と近世の「葉隠」などの「武士道」と儒教的な「士道」、そして近代に用いられるようになった「武士道」では、おのおの内容がまったく異なる。そのいずれを取るかによって、語義に大きな揺れが生ずることは当然である。しかも現在使われている「武士道」はこの言葉の歴史的な用法には関わりなく、武士に関わる様々の問題、古来武士の逸話などを、論者の好みに応じて適宜取り上げ、「武士道」と呼ぶような例をも、少なからず含んでいる。日本の武士の長い歴史をたどれば、もちろん様々な武士がいるわけで、好みの武士像を取り上げれば、好みの「武士道」論が出来上がるわけである」と述べている[4]。「武士道」という言葉は、人の価値観によって異なるということを踏まえておく必要がある。

1.2 「武士道」及び「武士道」論の歴史
 「武士道」及び「武士道」論の歴史は「武士」の発生と共にできたと考えても良いであろう。「武士道」の歴史の流れは大きく分ければ、三つに分けられる。第一は、中世「武士道」であり、平安末期(10世紀後半)の地方の集落に生まれ始めた「武士」から始まり、荘園制度の誕生と共に武士団も成立、団結した武士団は強力になり、幕府を成立させた。この時代は、戦争が多かったため、「武士道」という観念は武士の一人一人の実力を重視することになった。第二は、近世「武士道」であり、徳川幕府の力で天下を統一して、およそ250年以上の平和の中で武士達は、武士としてのやるべきことは何かと道徳的な「武士道」を考えていた。第三は、近代「武士道」であり、武士社会がなくなると共に、士族階層は近代的な社会にどのように関わっていくのか、が問題であった。
 以上にも述べたように「武士道」とは何かという質問に対して簡単には答えられるわけではない。時代、人々の見方によって、解答も異なる。以下で私は、「武士道」の誕生と歴史について、様々な先行研究に基づいて、述べたいと思う。

(1) 中世 (平安末期―戦国時代、10世紀―16世紀)
 中世の武士達は自分の立場、主君との関係に対して非常に単純な考え方を持っていた。武光誠によると、中世の武家社会における主従関係は、「御恩と奉公」と表現される。家臣は物的な利益など、主君から受けた恩恵に相当する分の恩返し(奉公)をせねばならないというものである。軍記物などには家臣の忠誠を称える話が多く出てくるが、「武士は命をかけて主君に仕える」ことを唯一の生きがいにしていたわけではない。彼らにとって最も大切なものは、自分が治める荘園村落であったと述べている[5]。また、武光は、小領主たちは自領を維持するために、その時々の有力者を主君としたと言う。『源平盛衰記』に次の話がある。

治承4年(1180年)に、源頼朝が反平氏の旗揚げをしたときのことだ。相模国の有力な武士、大庭景親が、この頼朝を討とうと攻めよせてきた。そのため源氏方と平氏方との間で、石橋山の合戦が起こった。この合戦のはじめの互いの正当性を主張しあう場面で、源氏方の北条時政が、「おまえの先祖は源義家(頼朝の祖父、為義の祖父)の家臣だったではないか」と言ったところ、景親がこう応えた。「わが祖先は源氏を恩主君としていたが、昔は昔、今は今。恩こそ主よ。源氏が平治の乱(1159)で没落して以来、私は平氏より海山のごとく深く高い恩を受けてきた。この恩を知らざるものは木石である」と言った[6]

以上の話について、武光は、「この言葉は、この時代の武士の正直な気持ちを伝えるものであろう」と述べている。それだけではなく、中世の武士達は命を大切にしたという。それは、自分がいなければ自分の家族や領民を守るものはいなくなってしまうという考えに基づくものだといっている。
 一方、佐伯真一は、中世の武士の道は、武士独特の道徳というような意味より、武士としての実力、能力の意味で使われていたと述べている。高橋昌明も同じようなことを述べている。

中世の他の道と同様、「兵ノ道」にことさら精神的・倫理的なものを求めようとすることは適当ではない。「兵の道」は(中略)勇敢・敏捷、腕力と判断力に優れた、バランスよい戦闘能力の保持に重点を置いており、それであってはじめて中世的な「道」たりうるのである[7]

 佐伯真一らがいうように、平安時代から鎌倉時代にかけての「兵の道」「弓箭の道」あるいは「弓馬の道」は、おおよそ武士らしい能力や習慣、ないしは生き方全般に広くかかわる言葉であって、特に倫理・道徳を意味したわけではなかった。しかし、南北朝時代に入ると、武士らしさの生き方も少し変わったことがわかる。『太平記』によれば、たとえば巻一〇「新田義貞謀叛の事」における脇屋義介の言葉「弓矢の道、死を軽んじて、名を重んずるを以て義とせり」、巻三一「新田義兵を起こすこと」における石塔頼房の言葉「今更弱きを見て捨つるは弓矢の道にあらず」などは倫理・道徳にかかわる面も見られる。しかし、中世の基本的な「武士道」の特徴はまだ大きくは変わっていないと考える。
 中世末期から近世初め頃の間に、「武士道」の観念についての最も大事な変化が見られる。それは『甲陽軍鑑』(1615-1624)に見られる。これが近世の武士の生活の一つの起源となったと思う。本書は、武田信玄の家臣、高坂弾正昌信(虎綱)の著作として伝えられた。この本には、武田信玄を中心とし、上杉謙信との戦いのほかに、武士としての精神的な態度、甲州に起こった事件と侍の生活が記されている。佐伯真一によると、「現在、「武士道」と言う言葉の初期の用法を考える最大の手がかりは、『甲陽軍鑑』であるとするのが、通税的な理解であろう。『甲陽軍鑑大成』の索引篇によって検査すると、「武士道」三九例を拾うことができる。また、「武道」は六五あり、その他、類似の言葉に「侍道」「男道」などがある。尚、中世末期から近世にかけて、「武士道」と「武道」は、ほぼ同義に近く、混用されたようである。例えば、『甲陽軍鑑』では、(中略)「我が家の仏尊し」と言う態度であると思われるようでは「武士の道」とは言えず、すべてを飾らず、ありのままに申し置くのが「武道」であるとした。ここでは「武士の道」はほぼ「武道」に等しい。」と述べている。
 佐伯真一はまた、「『甲陽軍鑑』における「武士道」「武道」の用法は、武士としての能力一般ないし、武士そのものを言うような例もあって多様だが、精神性をいう側面に注目すれば、「勇敢さ」や「男らしさ」などに強くかかわり、貴族的な上品さに対立する概念といえるようなものである。例えば、侮辱を受けたり、引くに引けない時には瞬時に戦闘を決断し、後先を考えず「きっかけ」を外さずに戦うことができる―そのような、よくいえば野性的で力強い、悪くいえば粗暴で野蛮な、荒々しい精神といえようか。」と述べている[8]
 『甲陽軍鑑』について他の論者を見てみよう。『甲陽軍鑑』の武士を上中下並の四つに分類した菅野覚明によると、「『甲陽軍鑑』がとらえる最も優れた「上」の武士とは「剛強にて、分別・才学ある男」である[9]。「勝ちがなければ」と説く『軍鑑』の「武士道」は、先学も指摘するとおり「道徳的な意味での武士の道」ではなく、「端的に武力をもってする闘争の仕方のこと」(和辻哲郎『日本倫理思想史』)であったから、「剛強」が武士の第一条件とされるのは当然である。しかし、ただ強いだけでは十分ではない。真に優れた武士、或いは名大将に欠かすことのできない条件として『軍鑑』があげるのは、「分別」であった」(P.93) と述べている。以上に述べた『甲陽軍鑑』に対しての二人の論者の共通点は、本書にえがかれた当時の武士の生き方は、中世的な「武士道」と基本的には変わりないが、「貴族的な上品さに対する概念」、「闘争の仕方」、「才学ある男」と言うような特徴があった。
 以上の様々な先行研究に基づいて、中世の「武士道」の特徴を次のようにまとめておこう。(1)中世の武士は「御恩」によって「奉公」を行うこと、つまり、自分の利益によって主君に従うことである(武光誠の説)、(2)中世の「武士道」が重視することは武士らしい能力と習慣である(佐伯真一の説)、(3) 『甲陽軍鑑』によれば、中世の「武士道」が重視したのは、武士の能力だけではなく、さらに、武士の「分別」と「才学」が大事ということである(菅野覚明の説)。中世の「武士道」は、武士の行き方や武士がやるべきこととは何かという道徳的な考え方ではなく、利益、能力、才学というものが重視されていた。

(2)近世 (江戸時代、1603-1868)
 江戸時代は「武士道」論の形成に関して最も豊かな時代と考えられる。なぜなら、戦国時代が終わってから、1614-1615年に徳川家康は豊臣秀頼を倒した後、徳川幕府はおよそ210年以上安定な政権を守り続けた。この時代に武士の生活には大きな変化が見られる。武光誠は言う。戦国時代が終わってから、武士にとって最も大切なものは、農民を治める能力ではなく、武芸であった。しかし、江戸時代に安定した武家政権が確立すると共に、武芸の必要のない時代が訪れた。農村の統治は村役人に任せられ、幕府や大名でなければできない仕事は交通路の整備、大がかりな用水や新田の開発、商工業の育成といったものになってしまった。しかも、江戸時代初めには、民政は下級武士の仕事だとする考えが強かった。そのため多くの武士は、形式的・儀式的な仕事を少々行うだけの、暇をもてあます生活をおくることになったと述べている[10]
 この平和な時代には、武士達は武芸を習うほかに、様々な学問を学び始めた。しかし、あまりにも長い平和の時代を過ごしたから、油断してしまった武士達もいたわけである。このような状況を見て、何人かの武士達は、「武士はどうすべきか、あるいは、武士らしい生き方はどうすべきか」という「武士道」の道徳を形成した。たとえば、宮本武蔵が書いた『五輪書』(1643)、山鹿素行の『士道』(1663-1668)、大道寺友山の『武道初心集』(18世紀)、山本常朝の『葉隠』(1716)などである。これらの本の内容は次のようである。
 『五輪書』は、二天一流の祖、剣客宮本武蔵(1584-1645)による同流派の基本的伝書である。成立は1643年頃で武蔵の晩年の著作である。1640年、肥後細川藩主の客人として迎え入れられた武蔵は、翌18年、藩主細川忠利の命により『兵法三十五箇条』として、はじめて二天一流の兵法を筆紙に上せた。『五輪書』は、この『兵法三十五箇条』を基に、編集・敷衍されたものである。本書について、武光誠は、「『五輪書』では、武士は「戦いに勝つため」に生きるものだとする倫理が記されている。そして剣術を学ぶにあたっての心得があれこれ書かれるが、その内容は、分かりづらいものになっている。「一切の迷いのない空」の境地にいたるのが兵法の極意だといわれても、一般人は「空」が何かを理解できない。三代将軍徳川家光の兵法指南を勤めた剣術家柳生宗矩の『兵法家伝書』も、江戸時代に広く学ばれたものだが、それも「太刀先の勝負は心にあり」といった禅問答のような内容になっている」と述べている[11]
 『山鹿語類』全45巻の内の第21巻が『士道』である。『山鹿語類』は江戸初期の儒学者・軍学者である山鹿素行(1622-1685)の門人達が、1663年から1665年にかけて、彼の言葉を編集したものである。(『日本思想大系32・山鹿素行』岩波書店に収録)。山鹿素行の「武士道」に対する考えは次のような文章からわかる。

身上の動静 ことごとく礼の用たれば、一動一静一語一黙おのおの礼節あり。(中略)内外は本一致にして別ならず、外その威儀正しきときは内その徳正し。外にみだるる処あれば内必ずこれに応ず。(山鹿語類「毋不敬」)

この引用の部分を基に、大橋健二は、山鹿素行の士道論の特徴は、このような士としての「威儀」の重視にあったと述べている[12]
 『武道初心集』は江戸時代、諸国を遍歴した軍学者大道寺友山(1639-1730)の手による、武士のための教訓書である。大道寺友山の最晩年の著作であるとされるが、成立年は明らかではない。全五十六カ条から成る。本書の中に、「武士というのは、正月元旦の朝、雑魚を祝う箸を手にしてから、その年の大晦日の夜にいたるまで、毎日毎夜のごとく、心に死を覚悟するのを第一の心がけとするものである」と書いてあり、『葉隠』と同様、死の覚悟のほかに、武士の奉公の重要性について書かれたものではないかと思う。
 『三河物語』とは、三河武士、大久保彦左衛門忠教(1560-1639)の著作である。徳川家代々の事績と、それに仕えた大久保一族の言行を記した書で、上中下全三巻で構成されている。本文中の記述に従えば、成立は1622年であるが、1626年頃まで補筆、修正があったと考えるのが定説である(『日本思想大系26・三河物語 葉隠』岩波書店に収録)。
 『葉隠』は、鍋島藩士田代陣基(1678-1748)が、同じく鍋島藩士山本常朝(1659-1719)の談話を筆録したものを基に、諸資料に当たって編集したものと考えられている。1716年頃の成立で、「夜陰の閑談」という長文の序と十一巻の聞書で構成されている(『日本思想大系26・三河物語 葉隠』岩波書店に収録)。『葉隠』の中で最も有名な文書は「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」である。これは、主君への絶対的な忠誠とともに死の清さ、死の覚悟を強調するのではないかと思う。
 以上に述べた様々な「武士道」に関しての著作によると、近世の「武士道」論の特徴は、中世の「武士らしいの能力と習慣」と中世末期の「闘争の仕方」を重視することではなく、道徳的・倫理的な生き方を重視するようになった点にある。平和に恵まれていた江戸時代には、戦いはほとんどなく、芸術や学問などを学ぶ時代になった。

(3)近現代 (明治維新―現在、1868-現在)
 江戸時代には武士の道徳・倫理的な規範を「武士道」と呼ぶこととなったが、「武士道」は必ずしも一般的な呼び方ではなかった。当時の一般的な呼び方は「武士の道」或いは「士道」であった。「武士道」という呼び方は明治30年以降から広まった。一つの理由は新渡戸稲造が英文で書いた『武士道』が明治30年(1900年)に出版され、多くの読者が注目したからである。
 明治時代に入ると、武士階級がなくなると共に「武士道」論も少しずつ変わってきた。もと武士であった彼らは明治の社会でどのような役割を担っていたのか、あるいは明治の社会階層のどの部分に位置していたのか、これらの疑問を明らかにするには明治時代の士族階層の行動規範あるいは思想を考えていく必要がある。
 「やせ我慢の説」は1891年(明治24年)に書かれた勝海舟と榎本武揚に対する福沢諭吉(1834-1901)の批判の書である[13]。発表されたのは10年後の1901年(明治34年)である。福沢は、戦わずして江戸城まで明け渡した勝海舟や、五稜郭に籠もって戦いながら後に明治新政府で大臣にまで出世した榎本武揚などの旧幕臣を、日本の武士の美風であった「やせ我慢」を失ったものとして批判する。福沢によれば、国民一人一人が「独立自尊」の民となったとき日本の独立は達成される(「一身独立して一国独立」)というのである。
 もう一つの『武士道』は、幕臣の家に生まれた剣客である山岡鉄舟(1836-1888)が明治20年(1887)に行った講義の口述筆記である[14]。山岡の弟子である勝海舟が明治35年(1902)に出版した。山岡『武士道』の内容は、まず仏教の四恩を語り、次いで社会の堕落と科学の発達の関係を語った後、日本には古来、「天地未開の前」から、「皇祖皇宗」に伴って「武士道」が存在していたと語り、それが衰えつつあることが社会の乱れの原因であるとして、「武士道」精神を根本にして生きていく必要があると説く。山岡によれば「武士道」とは仏教、儒教の影響を受けているというが、神道については明言していない。
 明治11年(1878)10月12日、軍人を統制し、政治から分離すること目的とし、西周(1829-1897)が起草、陸軍卿山県有朋(1838-1922)の名で陸軍に発布されたのが『軍人訓誡』である。そして、この『訓誡』の4年後の明治15年(1882)1月4日、山県の命により西が起草、明治天皇(1852-1912)が陸海軍軍人に対して下したものが、5か条から成る『軍人勅諭』である[15]。近代的な国家を形成するためには強い軍事力を作らなければならない。そこで明治政府は1873年1月に徴兵令を出した。徴兵令は、士族たちだけではなく、一般の国民に対しても下された。『軍人勅諭』は、徴兵制開始の9年後に、明治天皇から陸海軍人に対して下された。5か条は、以下のようである。

一、軍人は忠節をつくすを本分とすべし
一、軍人は礼儀を正しくすべし
一、軍人は武勇を尚ぶべし
一、軍人は信義を重んずべし
一、軍人は質素を旨とすべし

この「忠節」、「礼儀」、「武勇」「信義」、「質素」が明治の近代的な「武士道」の観念となった。
 1889年に作られた『大日本帝国憲法』の中には、「天皇は陸海軍を統帥する」という条文がうたわれ、日本軍は天皇のために命を捧げなければならないという意味も加えられた。これについて、武光誠は、「明治政府による「忠誠」の教えは危険な要素をはらむものであった。江戸時代の武士の忠誠は俸禄を与えてくれる将軍や大名に対するものであったが、明治維新によって幕府も藩主もなくなり、兵隊が仕える対象は天皇一人だけになっているからだ」と述べている[16]。このような「武士道」の新しい発想が日本の国家主義につながったのではないかと思う。
 “Bushido, The Soul of Japan: An Exposition of Japanese Thought”(武士道、日本の精神:日本思想の解説)(英文)は農学博士新渡戸稲造(1862-1933)が、日本の道徳観念を外国人に紹介するために執筆、明治33年(1900)米国で出版した。新渡戸ははじめて外国に紹介する日本の道徳観を、西洋の道徳観・倫理観と関連づけながら、普遍的な道徳の価値観に基づいて語った。(本書についての評価は後に詳しく述べたいと思う)。
 「武士道と基督教」は明治・大正期の思想家内村鑑三(1861-1930)が『聖書之研究』誌に発表した文章である[17]。内村鑑三による「武士道」観は次の文からわかる。内村は「武士道は日本国最善の産物である」、「武士道は神が日本人に賜ひし最大の賜物であって、これがある間は日本は栄え、之が無くなるときに日本は亡ぶるのである」と述べている。これについて、大橋健二は「明治時代の代表的なキリスト者の内村鑑三がこれほど武士道を称賛しているのは意外に思われるかもしれないが、幼年時代から身につけた武士道の精神は、それほど彼の骨髄にしみっていたからである」と述べている[18]
 船津明生は、明治期の「武士道」論についてそれぞれの特徴あるいはそれぞれの規範となった思想によって明治期の武士道を三つに分けている[19]
1)山岡鉄舟等の旧来の武士道を守り伝統を伝えるもの、また福沢諭吉『やせ我慢の説』等に代表される精神論に受け継がれていく<和魂的武士道>。
2)『葉隠』の伝統を残し、軍人勅諭等に代表される天皇中心の政治形態を強固な物にしようとするイデオロギーとしての滅私奉公を基本倫理とした<天皇的武士道>。
3)新渡戸稲造『武士道』に代表されるプロテスタン精神との融合を目指し、国際的かつ普遍な思想へと武士道を高めていこうとした<キリスト教的武士道>。
1)と2)の「武士道」は江戸後期に発生した後期水戸学や国学の影響を受けていると考えられるが、3)の「武士道」は、キリスト教に基づいて、「武士道」と「キリスト教」の普遍的な道徳の共通点を強調するものである。
 井上哲次郎は『武士道全書』(1942-1944)の中で、明治以降の「武士道」について次のように述べている。彼によると、明治以降の武士道とは「天皇に対する忠誠」であり、「万世一系の国体」を支えるものであった。これに対して大橋健二は、『武士道全書』を刊行する目的は、満州事変以降、戦争が今後ますます拡大し、未曾有の展開となって、いつまで続くかわからない情勢の下で、武士道の盛衰こそが国運を左右するものだとし、武士道精神の鼓吹を目的としたものであったと述べている[20]。井上は『武士道全書』「序文」では、「今後武士道的精神を研究し発揚し、将来世界に於いて皇国の権威を維持するのみならず、益々是を発揚するために、何うしても武士道的精神を十分涵養して之を子孫後昆に伝へなければならない」と述べている[21]。この『武士道全書』によって、井上哲次郎は「皇国権威」を「維持」し「発揚」させ、武士道を「万世一系の国体」に結びつけようとしたのではないかと考えられる。
 現代的な文学者である三島由紀夫は、「武士道」を哲学的な価値観から考察している。彼は「武士道というものは、(中略)健康であることよりも健康に見えることを重要と考え、勇敢であることよりも勇敢に見えることを大切と考える、このような道徳観は男性特有の虚栄心に生理的基礎を置いている点で、最も男性的な道徳観といえるかもしれない」と述べている[22]。三島は、山本常朝『葉隠』に基づいて、『葉隠』を三つの哲学にまとめた。「行動哲学」、「恋愛哲学」、「生きた哲学」である。三島の「武士道」は外見的な道徳を重んじたものである。
 以上で、近現代「武士道」論においては、(1)明治期の「武士道」論、(2)明治期以降の「武士道」論、(3)戦後の「武士道」論を三つの時期に分かれている。明治期の「武士道」論においては、船津明生が分類しているように、和魂的武士道、天皇的武士道、キリスト教的武士道がある。明治以降の武士道においては、大東亜戦争との関わりがあるため、井上哲次郎が述べているように「武士道」を「国体」に結びつけようとした考えがある。戦後の「武士道」は、敗戦した日本は、物質的な価値観に向けて、国民の精神的な状況は非常に貧しいため、『葉隠』のような武士道の精神を国民に持たせるようにという考えがある。つまり、大きくまとめると、近現代の「武士道」論は、国民国家の形成との関わり、世界の中での日本を位置づけ、国民の道徳観との関わりという様々な特徴が見えてきた。
 「武士道」論は、以上に述べたように時代によって、変化が見られる。単純な主君に対しての関係あるいは上下関係から誕生した中世的な「武士道」論からはじまって、「武士らしい生き方」あるいは「武士はどう生きるべきか」という近世の道徳的な「武士道」論に変り、近現代においては、「国民国家の形成との関わり」、「世界の中での日本を位置づけ」、「日本国民の道徳観との関わり」という様々な変化が見られる。

表2.「武士道」及び「武士道」論に関する重要な書物のリスト[23]

題名と著作 テーマ  成立年
1 今昔物語 編者不明 武士の説話収録 12世紀
2 保元物語 作者不詳 保元の乱に取材した軍記物 13世紀
3 平治物語 作者不詳 源氏・平家の戦争 同上
4 平家物語 信濃前司行長 (?) 源平合戦 13世紀中頃
5 甲陽軍艦 高坂弾正虎綱・春日想次郎 武田信玄・勝頼の事績 1615-1624年頃
6 三河物語 大久保費さ彦左衛門 徳川家代々の事績と大久保家の言行 1622-1626年
7 五輪書 宮本武蔵 二天一流の伝書 1643年 
8 士道 山鹿素行 平和な時代の武士の存在理由を裏付け 1663-1668年
9 葉隠 山本常朝 武士の生き方、主君に対しての忠義とやるべきことを考え直す 1716年頃
10 武道初心集 大道寺友山 武士の生活啓蒙書 18世紀? 
11 Bushido: The Soul of Japan Nitobe Inazo 武士道によって日本文化を語った書 1900
12 やせ我慢の説 福沢諭吉 幕末の武士が失った武士道の美風に対する福沢諭吉の批判 1901
13 武士道 山岡鉄舟 山岡による武士道の形成 1902
14 武士道と基督教 内村鑑三 内村鑑三によるキリスト教への信仰と武士道への精神を語る書       1916-1918
15 武士道全書 井上哲次郎 天皇国家の武士道 1942-1944
16 葉隠入門 三島由紀夫 『葉隠』に基づいて三つの人生の哲学をまとめた 1967

[1] 古川哲史『日本倫理研究2、武士道の思想とその周辺』福村書店、1957
[2]  B.H. Chamberlain “The Invention of New Religion”, London, 1912
[3]  佐伯真一『戦場の精神史』日本放送出版協会、東京、2004、P.192-193
[4]  同上 P.193
[5]  武光誠『日本人なら知っておきたい武士道』河出書房新社、東京、2004 P.82
[6] 武光誠、前掲書、P.83-84
[7] 高橋昌明『武士の成立 武士像の創出』東京大学出版会、東京、1999
[8]  佐伯真一、前掲書、P.203
[9]  菅野覚明『武士道の逆襲』講談社現代新書、東京、2004、P.93
[10] 武光誠、前掲書、P.114
[11] 武光誠、前掲書、P.136
[12]  大橋健二『救国「武士道」案内』、小学館文庫、1998、P.111
[13] 福沢諭吉『やせ我慢の説』1901(福沢諭吉全集第六巻、岩波書店、1959)
[14] 山岡鉄舟口述・勝海舟評論『武士道』安部正人編、大東出版社、1940
[15]菅野覚明、前掲書、P.285
[16]武光誠、前掲書P.165
[17]内村鑑三「武士道とキリスト教」聖書之研究誌186号(1916)、210号(1918)(内村鑑三全集、第22巻第        23巻、岩波書店、東京、1982)      
[18]大橋健二、前掲書、P.18
[19]船津明生「明治期の武士道についての一考察-新渡戸稲造『武士道』を中心に」言葉と文化第四号、名古屋大学、2003
[20]同上、P.27
[21] 井上哲次郎監修『武士道全書』時代社、東京、1942-1944
[22]三島由紀夫『葉隠入門』新潮文庫、東京、1967
[23]様々な資料から編集した

2007年4月13日金曜日

BUKU PERCAKAPAN BAHASA JEPANG

JAPANESE CONVERSATION (日本語会話:三ヶ国語対応)

Author: Antonius R. Pujo Purnomo, M.A.
300 p., ISBN: 979259440, Era Media, 2006


This book specifically designed for practicioners involved in business and tourism and complete beginners who are interested in the fields. It helps them by providing concise information and is available in Indonesian, English, and Japanese versions. A mini dictionary is supplemented to assist any learners. It provides practical guidance for those interested in studying Japanese.

BUKU KUMPULAN CERITA RAKYAT JEPANG


Buku Kumpulan Cerita Rakyat Jepang
Penyusun: Antonius R. Pujo Purnomo, M.A.

(日本民話集-上)
TANABATA: KUMPULAN CERITA RAKYAT JEPANG 1
xii + 192 Hal., ISBN 979-25-9442-6, Era Media, 2007

(日本民話集-中)
KAGUYA-HIME: KUMPULAN CERITA RAKYAT JEPANG 2

xii + 164 Hal., ISBN 979-25-9443-4, Era Media, 2007

Buku Kumpulan Cerita Rakyat Jepang ini terdiri dari dua jilid, yang masing-masing berisi 50 buah cerita rakyat Jepang. Masing-masing cerita dicantumkan judul asli dalam bahasa Jepang, daerah asal cerita, dan pesan moral serta keterangan-keterangan tentang cerita tersebut. Sangat praktis dan berguna bagi pembelajar kajian Jepang, pencinta kebudayaan Jepang, dan pembaca umum lainnya. Sudah beredar di toko-toko buku di seluruh Indonesia mulai April ini dengan harga yang sangat terjangkau. Segera dapatkan sebelum kehabisan.

NASIONALISME BANGSA JEPANG DAN SEMANGAT BUSHIDO

Nasionalisme Bangsa Jepang dan Semangat Bushido
日本人のナショナリズムと武士道の精神

Antonius R. Pujo Purnomo, M.A.
Universitas Airlangga

要旨
愛国心とナショナリズムは双子のようである。現在、国際化の進歩と共に時代の流れも過ぎてゆく。愛国心とナショナリズムも時代の流れと共に変わっていく。では、現在の日本人は自分の国に対する愛国心はどのように考えているのか、どのように表現するのか?本論文では、様々な意見を取り上げ、先行研究として述べている。本論文の目的は現代(戦後)日本人における愛国心と戦前の日本人が守っていた愛国心を比較しながら検討してみたい。そのほかの目的は現在の日本社会の道徳価値観をもう一度反映してみたいと思う。さらに、最近政府側は国民の国粋を形成するには武士道の道徳概念を再び掘り出すという傾向がよくみられる。日本人とナショナリズムと武士道の精神がどのように結びついているのか検討してみたい 。

Pendahuluan
Rasa kebangsaan (nationalism) dan cinta tanah air (patriotism) ibarat dua anak kembar yang tidak dapat dipisahkan satu sama lainnya. Kedua hal tersebut erat kaitannya dengan perasaan senasib yang dimiliki oleh suatu kumpulan masyarakat (society) pada suatu tempat. Menurut Benedict Anderson, perasaan seperti ini menjadi sesuatu yang imagined, artinya orang-orang tersebutlah yang mendifinisikan mereka sendiri sebagai warga suatu bangsa, meski tidak pernah saling mengenal, bertemu atau bahkan mendengar. Namun dalam suatu pikiran mereka hidup suatu image mengenai kesatuan bersama. Pikiran atau perasaan seperti itulah yang seringkali kemudian menimbulkan adanya pengorbanan jiwa dan raga dari anggota masyarakat tersebut bagi bangsa dan negaranya (Benedict, 2001).
Bangsa Jepang adalah sebuah bangsa yang homogen. Karena itu sebuah perasaan kebangsaan dapat dengan mudah tercipta. Sepanjang ribuan tahun sejarahnya, bangsa Jepang dapat tunduk di bawah suatu komando, yaitu kekaisaran Jepang. Memang, di Zaman Feodal (1200-1600) banyak terjadi kekacauan di seluruh penjuru negeri akibat perebutan kekuasaan oleh kelas prajurit. Namun, sebenarnya kedudukan Kaisar sebagai pemersatu negeri tetap tidak tergoyahkan hingga kini.
Persoalan nasionalisme dan patriotisme di Jepang sebenarnya bukan merupakan hal baru. Persoalan ini timbul tenggelam terbawa arus zaman yang terus berubah. Dewasa ini, seiring dengan globalisasi dunia yang mengakibatkan batas-batas antar negara sudah hampir tidak kelihatan lagi, muncullah kekhawatiran kalangan-kalangan tertentu di Jepang mengenai jati diri bangsa. Persoalan jati diri atau identitas nasional ini terus menyeruak masuk ke dalam kepala para pemegang kendali pemerintahan Jepang.

Perumusan Masalah
Makalah ini hanya berupa tinjauan terhadap suatu masalah yang sedang terjadi di Jepang dewasa ini, yaitu persoalan nasionalisme atau national identity bangsa Jepang. Perasaan kebangsaan yang erat sekali dengan jati diri suatu bangsa. Kemudian, saya mencoba untuk menghubungkannya dengan kecenderungan beberapa kalangan masyarakat Jepang dan pemerintahan yang mencoba menggali kembali nilai-nilai masa lalu Jepang, diantaranya adalah etika bushido yang berlaku di zaman feodal. Menurut pengamatan saya akhir-akhir ini nilai-nilai etika feudal tersebut banyak yang disisipkan dalam berbagai hal, diantaranya adalah tayangan-tayangan film dan drama di TV, kisah cerita di novel, ataupun pembahasan-pembahasan secara ilmiah baik di mass media maupun di lingkungan pendidikan. Apakah fenomena tersebut ada hubungannya dengan upaya pembangkitan kembali rasa kebangsaan bangsa Jepang? Dalam makalah ini akan meninjau berbagai masalah tersebut secara singkat.

Pembahasan
Nasionalisme Jepang Dewasa Ini
Seorang Analis Hubungan Internasional; Okazaki Hisahiko menuliskan bahwa, “Nasionalisme adalah sebuah perasaan dasar manusia, yang akan timbul dengan sendirinya (Chuo Koron, September 2004)”. Tentu saja hal tersebut tidak salah. Namun perasaan kebangsaan (nasionalisme) atau perasaan cinta tanah air apa yang dimiliki oleh bangsa Jepang saat ini? Kayama Rika; seorang analisis sosial memberikan komentar tentang tingkah laku para remaja Jepang akhir-akhir ini. Ia mengatakan bahwa, tingkah laku para remaja Jepang dengan menggambar bendera Hinomaru di pipi kiri-kanannya saat mendukung Kesebelasan Jepang dalam Piala Dunia 2002, kemudian menuliskan berbagai komentar di blogger atau sarana internet lainnya tentang kecintaannya hidup di Jepang dan kegiatan-kegiatan kecil lainnya adalah juga merupakan salah satu bentuk nasionalisme masyarakat Jepang dewasa ini. Sang penulis kemudian memberikan istilah terhadap hal tersebut sebagai “Petite Nationalism” atau nasionalisme kecil (Kayama, 2002). Namun apakah hanya itu bentuk nasioanalisme Jepang dewasa ini? Sang penulis lebih lanjut mengatakan bahwa para remaja Jepang dewasa ini, karena begitu banyak permasalahan yang kompleks, maka mereka cenderung individualis, acuh tak acuh dan agak sinis dengan kondisi lingkungannya. Tingkah mereka tersebut tidak ada hubungannya dengan sikap-sikap politik misalnya sayap kiri yang sosialis ataupun sayap kanan yang nasionalis. Kayama menyatakan bahwa tingkah laku mereka tersebut hanya sebatas permasalahan kejiwaan belaka. Namun, menyikapi hal ini, Takahara Motoaki; seorang pengamat sosial Jepang lainnya mengatakan bahwa meskipun kelakuan para remaja dewasa ini yang sering memberikan komentar-komentar pribadi di blogger atau sarana internet lainnya tentang hubungan negara mereka dengan negara lain (dalam hal ini adalah hubungan Jepang-Cina-Korea) yang tidak stabil akhir-akhir ini bukan termasuk sikap politik yang serius, namun pendapat mereka sudah dapat digolongkan ke dalam sikap politik, entah itu sikap politik golongan kiri atau kanan (Takahara, 2006). Sikap mereka tersebut cenderung tidak stabil karena ditentukan oleh banyak kondisi, diantaranya oleh masalah-masalah sosial di lingkungannya, atau minat mereka karena masalah-masalah tersebut sedang ramai dibicarakan. Hal inilah yang menyebabkan sang penulis menyebutnya dengan Fuan-gata Nashonarizumu Jidai atau Zaman Nasionalisme yang Tidak Stabil.

Bentuk-bentuk Nasionalisme Jepang Masa Lalu
Pada Zaman Feodal (1200-1868), rasa kebangsaan atau nasionalisme masyarakat Jepang terbagi menjadi dua. Pertama, perasaan kebangsaan pada wilayah tempat ia tinggal (negara bagian) yang dikuasai langsung oleh tuan-tuan tanah mereka (daimyo), dan perasaan kebangsaan sebagai bangsa Jepang yang dipersatukan oleh keluarga kekaisaran atau penguasa militer (bakufu). Namun, bagi para prajurit yang mengabdi langsung pada tuan mereka di wilayah-wilayah daerah, darma bakti atau kesetiaan tertinggi mereka ditujukan kepada sang tuan yang mempekerjakan mereka. Hal inilah yang seringkali mengakibatkan kontradiksi pengabdian mereka, yang kebanyakan berakhir dengan tragis, seperti dalam kisah-kisah di Zaman Feodal diantaranya adalah Kisah 47 Ronin, yang mengakibatkan mereka harus menjalani hukuman seppuku (membinasakan diri) oleh bakufu setelah melakukan pembalasan dendam atas kematian tuan mereka.
Memasuki Zaman Meiji, dimana pemerintahan pusat dikembalikan kepada kaisar, maka pemerintahan pun dapat mengendalikan rasa kebangsaan penduduknya. Pada zaman ini hingga berakhirnya perang dunia kedua, segenap masyarakat Jepang mempunyai hak yang sama dalam urusan bela negara. Namun, karena kebanyakan pemegang kendali pemerintahan Meiji, Taisho, dan Showa berasal dari keturunan golongan prajurit (bushi) pada Zaman Feodal, akibatnya nilai-nilai bushido pun turut diterapkan dalam semua lini kehidupan masyarakat Jepang, terutama di bidang pendidikan dan militer. Diantara nilai-nilai bushido yang diterapkan tersebut adalah sikap rela mati untuk keagungan Kaisar yang berlaku sebagai kepala pemerintahan yang sekaligus keturunan dewa tersebut. Pengendalian sikap politik penduduk Jepang oleh golongan militer pada masa perang Cina-Jepang dan Perang Asia Raya menimbulkan dampak negative bagi sebagian besar penduduk Jepang sendiri, yakni terampasnya hak-hak individual untuk menenentukan nasibnya sendiri. Namun, tentu saja tidak semua nilai-nilai bushido yang diterapkan dalam setiap sendi masyarakat Jepang berakibat buruk. Banyak juga hal-hal positif yang dapat ditimbulkan. Diantaranya adalah sikap kesetiaan, baik pada keluarga, perusahaan, maupun pemerintah. Sikap disiplin dan kerja keras yang dimiliki oleh hampir semua masyarakat Jepang adalah juga merupakan contoh yang baik.
Berakhirnya perang dunia kedua dengan kekalahan Jepang yang memilukan pada tahun 1945 telah memberikan pelajaran berharga bagi pemerintahan Jepang agar semakin berlaku arif dan bijaksana baik dalam memperlakukan warga negaranya maupun dalam menjalin hubungannya dengan luar negeri. Dengan bimbingan dari pasukan pendudukan sekutu yang dipimpin oleh Amerika Serikat, bangsa Jepang mulai menata kembali kehidupannya. Pasal 9 Konstitusi Jepang 1947 menegaskan bahwa Jepang tidak lagi akan memiliki pasukan perang. Suatu langkah penting dalam turut serta menjaga perdamaian dunia. Untuk selanjutnya urusan pertahanan keamanan Jepang akan dibantu oleh Amerika Serikat sebagai negara sekutunya. Namun, karena perkembangan politik di kawasan Asia Timur yang terus bergejolak, terutama saat terjadinya perang di semenanjung Korea pada tahun 1950-1953, maka pemerintah Jepang dengan seijin pasukan pendudukan sekutu, membentuk pasukan bela diri Jepang (Jiettai). Jiettai inilah yang kemungkinan besar di kemudian hari akan menjadi cikal bakal terbentuknya tentara nasional Jepang bila amandemen konstitusi dilakukan. Pada masa pasca perang ini (1945-1955) Jepang mengalami masa baby boom pertama dimana angka kelahiran bayi meningkat tajam. Baby boom kedua terjadi pada rentang tahun 1975-1980 saat perekonomian Jepang tumbuh pesat.
Perkembangan rasa kebangsaan masyarakat Jepang di tahun 1960-1970 dipicu oleh beberapa hal. Diantaranya adalah banyaknya anak-anak yang lahir saat baby boom kini telah mencapai usia dewasa. Pada era tahun 1960 an banyak diantaranya sedang mengenyam pendidikan di sekolah menengah atas dan perguruan tinggi. Kekritisan mereka terhadap pemerintahan memicu banyak terjadinya demonstrasi menentang kebijaksanaan-kebijaksanaan pemerintah. Diantaranya adalah penentangan terhadap perpanjangan perjanjian pertahanan keamanan antara Jepang dan Amerika. Rasa kebangsaan mereka timbul sepenuhnya karena kepedulian terhadap masa depan bangsa dan negaranya. Pada masa-masa selanjutnya pembangunan perekonomian Jepang mengalami masa keemasannya hingga awal tahun 1990 an. Pada masa-masa ini sebagian besar masyarakat Jepang yang bekerja di sektor bisnis dan jasa berlomba-lomba mencari keuntungan ekonomi dari perdagangannya dengan luar negeri. Pada masa ini bisa dikatakan bahwa nasionalisme bangsa Jepang lebih cenderung karena factor kepentingan ekonomi. Di lain pihak, pada masa tahun 1975-1980 an adalah masa baby boom kedua, dimana karena tingkat perekonomian penduduk rata-rata yang tinggi menyebabkan mereka tanpa kesulitan yang berarti dapat memelihara anak-anak mereka dengan baik. Anak-anak yang mendapatkan banyak kesenangan di masa kecilnya inilah yang selanjutnya hidup sebagai manusia-manusia dewasa berusia 20-25 tahunan pada masa kini. Seiring dengan krisis perekonomian yang terjadi pada paruh akhir tahun 1990, para remaja dewasa ini menjadi remaja yang pesimistis dan acuh tak acuh terhadap masa depan mereka sendiri, apalagi masa depan bangsanya.

Penggalian Kembali Ide Moralitas Bushido
Tidak dipungkiri bahwa keadaan perekonomian Jepang yang masih belum meunjukkan peningkatan yang berarti dalam satu dasawarsa terakhir ini, serta menurunnya kualitas sumber daya manusia dan berbagai kejadian social yang meresahkan di masyarakat menimbulkan persoalan besar bagi pemerintah. Berbagai agama baru terbentuk di kalangan masyarakat dengan menawarkan berbagai macam kiat untuk mencapai ketenangan spiritual bagi para pemeluknya. Namun sebagian diantaranya malah menimbulkan masalah baru dalam masyarakat, seperti: Aum Shinri-kyo yang menyebarkan gas beracun pada tahun 1990 an.
Pemerintah dan beberapa kalangan masyarakat yang turut peduli terhadap degradasi moral masyarakat ini terus berupaya untuk merumuskan formula yang tepat agar masyarakat Jepang kembali bangkit dari keterpurukan moral tersebut. Diantaranya adalah rencana reformasi di bidang pendidikan agar daya saing dan sumber daya manusia Jepang dapat ditingkatkan. Ide-ide moralitas bushido sebelum jaman perang secara tersembunyi juga sedang dipersiapkan. Upaya-upaya untuk membangkitkan kenangan terhadap nilai-nilai patriotisme bangsa Jepang terus digulirkan terutama oleh golongan kanan Jepang. Penayangan Drama-drama yang bertemakan kehidupan samurai di Zaman Feodal oleh NHK (Televisi pemerintah), dukungan terhadap pembentukan pasukan perang Jepang, penggagalan upaya pembicaraan tentang kaisar wanita, kunjungan ke Kuil Yasukuni oleh pemimpin pemerintahan adalah beberapa contoh upaya untuk mengembalikan rasa kebangsaan dan patriotisme bangsa Jepang. Terlepas dari kontroversi apakah cara-cara tersebut akan efektif atau tidak bagi perkembangan bangsa Jepang sendiri, namun perlu dicatat disini bahwa baik pemerintah maupun masyarakat Jepang sendiri bertanggung jawab atas masa depan bangsanya.
Ide untuk mengembangkan semangat Bushido pada zaman modern seperti ini tidak sepenuhnya buruk. Memang, hakekat sebenarnya dari Bushido; Jalan Prajurit adalah untuk mati seperti yang tercantum dalam Hagakure—“bushi taru mono wa shinu koto mitsuketari”. Namun, makna sesungguhnya yang dapat dipetik dari kalimat tersebut adalah anugerah hidup ini hendaknya dijalani dengan sungguh-sungguh. Bekerja keras hingga berhasil adalah cita-cita luhur dari setiap manusia. Untuk meraih hal tersebut diperlukan kerja keras dan disiplin yang tinggi. Bagi para samurai, kematian dalam rangka mewujudkan kesetiaan tertinggi pada sang tuan adalah cita-cita tertinggi. Namun, bagi manusia Jepang dewasa ini kerja keras dalam rangka mewujudkan keberhasilan itulah cita-cita tertinggi. Sesungguhnya nilai-nilai seperti ini bukan hanya dimiliki oleh Bushido, namun nilai-nilai tersebut adalah nilai-nilai yang universal; yang juga terkandung di dalam setiap kebudayaan di dunia ini.

Kesimpulan
Bagi sebuah bangsa, baik pemerintah maupun masyarakatnya berkewajiban untuk memelihara dan mengembangkan formulasi rasa kebangsaan dan cinta tanah air yang tepat bagi kelangsungan hidup bangsanya. Namun, tentu saja pengakuan atas hak yang sama atas individu maupun bangsa-bangsa lain harus tetap dijaga agar senantiasa dapat tercipta suasana harmoni dan damai di dunia.
Ide penggalian kembali nilai-nilai luhur yang terkandung dalam Bushido bagi pembentukan karakteristik bangsa Jepang serta untuk menumbuhkan kembali rasa kebangsaan dan cinta tanah air tidak bisa sepenuhnya dianggap ide buruk. Karena sesungguhnya setiap bangsa mempunyai ciri-ciri karakteristik yang berbeda dengan bangsa lain. Mungkin bangsa Jepang lebih cocok dengan Bushido-nya, namun bagi bangsa lain yang mempunyai karakter berbeda juga harus bisa menerima perbedaan tersebut. Yang terpenting disini adalah saling menjaga keseimbangan antara berbagai kepentingan agar tercipta suatu kehidupan yang harmoni dan damai.

Referensi
Benedict Anderson. Imagined Communities, Insist 2001
香山リカ『プチナショナリズム症候群-若者たちの日本主義』中公公論新社 2002
高原基彰『不安型ナショナリズムの時代―日韓中のネット世代が悩みあう本当の理由』洋泉社 2006
『日本思想大系26・三河物語 葉隠』岩波書店 1976
「政府主導のナショナリズムほど危険な存在はない」中央公論2004年9月号